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  • 執筆者の写真Satoshi Enomoto

【雑記】レトロ趣味の話:古いけれども新しいもの


 19世紀末から20世紀前半の音楽が好きであることを普段から公言しています。かの時代は、色々な作曲家たちがそれぞれ様々に、自らの信じる "新しい音楽" を模索した時代でありまして、その試行錯誤が非常に面白いと思っているのであります。


 確かにその近辺の時代が個人的には所謂 "推し" の作曲家が多いポイントではあるのですが、そういえば音楽以外にも目を向けてみると、やはり同時代の芸術や文化を好む節があると自己分析しました。もちろん、音楽から関連して興味をもったものもあるにはあるのですが、それだけではないところもあります。


 

 このレトロ好きがどこから来たものか、明確には言い切れません。ただ、そのような時代を感じさせるものに囲まれて育ったという事実はあると言っていいかもしれません。我が家はつい10年前まで黒電話が現役でしたし、今でもガーデニングには井戸の水を使っています。開かずの収納が存在し、昭和やそれ以前のものが発掘されたりします。先日は明治時代の皿が出てきました。


 また、地域の昔話もよく聞いたものです。江戸末期生まれの高祖父の代から我が家は今の位置にありまして、地域の生活や出来事が伝えられていたり、メモ書きで残っていたりするのです。


 我が家の過去帳を捲ってみますと、最初に死んだのは高祖父…ではなく、高祖父の息子、僕の曾祖父の兄にあたる人物です。大正9年に20代で亡くなっています。1920年。世界恐慌が起きた年であり、また日本ではスペイン風邪の第2波・第3波を迎えていた年です。音楽史では1920年代なんて特に面白い時期であるわけですが、世間は大変な時代だったのでしょうね。


 そしてその3年後に高祖父も還暦手前で亡くなっています。関東大震災の年。榎本家は運良く倒壊こそ免れたものの、そこから長らく傾いたままだったそうです。そこからはまだまだ存命だった高祖母や曾祖父が榎本家を守ることになります。


 

 唐突にファミリーヒストリーに言及しましたが、メインの話はそこではなく。


 曾祖父も曾祖母も昭和の終わりと前後して亡くなったため、僕は直接その人となりを知りませんし、またその時代の話を直接聞くことは叶いませんでした。ただ、そのことがかえって、彼らの生きた時代のことへの興味へと繋がっているのかもしれません。明治・大正・昭和と、どのような時代の中をどのように生活し、何を見聞きして生きたのかということです。


 テクノロジーとは便利なもので、100年近く前の映像を現代において見ることができます。今現在でも存在している色々な場所が昔と比べて大きく様変わりしていることには衝撃を覚えます。


 もちろんその当時の生活に比べれば現代の方が技術的には発達しているのでしょうが、それを目にしたときに覚えるのは、むしろ現代のものに対するそれに匹敵する新鮮さであります。それ自体は古いものでありながら、それを見る人の中では新しいものなのでしょう。



 

 以前、クラシック音楽の演奏をタイムマシンとして扱うことに反対である旨を書いたことがありました。それは過去のものについて「過去のものである」こと自体に価値を見出だしてありがたがることだと感ずるからであるわけです。


 そんな考えをもっていてなおクラシックをやっている僕自身の感覚は、新鮮さを求めるレトロ趣味に通じているかもしれません。"古いけれども新しいと感じるもの" を求めているのでしょう。過去を再現すること自体は実は目標ではない。


 一見すると昔のもののように見えても、そこに新鮮さが感じられないことを即時には意味しないということです。一方で、そこに新鮮さがあるように見せることも重要なことなのかもしれません。僕の場合は、その "新鮮さを感じる" という感覚で音楽を選り好みすると、普段の方針に着地することになるようです。本当はこれをもっと拡げられればよいのでしょう。


 "古いけれども新しい" …そんな世界に、興味はございませんか。

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