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  • 執筆者の写真Satoshi Enomoto

【雑記】タイムマシンの操縦をするつもりは無い

 クラシックの演奏家も決して一枚岩というわけではなく、実際には様々な考え方や姿勢で演奏に取り組んでいるものです。今回はその事に絡んだ話なのですが、決して反対勢力を批難するつもりではなく、僕個人の姿勢の表明にすぎないことを予め注記しておきます。


 

 さて、次のような言い回しが為されることがあります。


「クラシックのピアノはタイムマシン、

ピアニストはその操縦士」


 決してこの主張を持つ人たちを全面批難したいわけではありません。ピアノに限らず、この姿勢でクラシックに取り組む演奏家は存在するはずですし、僕の身近にもいるでしょう。それを悪いと断じたいわけではありません。


 しかし、僕は上のような考え方を以てクラシックを演奏しているつもりはないのです。もはや一瞬たりともそのように考えたことは無かったと思います。


 確かに僕自身には懐古趣味のようなものがあります。レトロなカフェ(コンセプトがレトロなものではなく、今でも分煙すらしていないような旧時代的なもの)や廃墟を巡るのは大好きでして、そこで過去に思いを巡らせることが無いわけではないです。


 ただ、クラシック音楽における過去の作品を弾くことによって、過去を現在に顕現させ、観客にタイムトラベルをしていただこうという考えは起きません。「200年、300年前の音楽を再現しよう!」という試みは、あくまでも好奇心的な意味で惹かれるものです。博物館が面白いと感じるのと同じ要領でそれも面白いと思うのであって、それは知的好奇心を満たす以上の目的を持っていないのではないかと感じるのです。僕がベートーヴェンを弾くのは、ベートーヴェンの音楽の旧さを体験してほしいからではないのです。


 

 これも頻繁に言われますが、「作者の意志を尊重して、楽譜通りに」という文言があります。一見すると音楽に対して誠実な姿勢であるように見えますし、これを守ることが当人にとっても誇らしく思われたりもすると思います。神たる作曲家に忠実な演奏家であるという自負も生まれるでしょうし、この姿勢こそが、過去に生きていた作曲家に接近し、その音楽を再現するという意味で “タイムマシンと操縦士” の比喩に繋がるのでしょう。


 その滅私な姿勢を称えることがどうにも疑問であります。と言うのも、それが自発的な創造性に欠けるもののように思われるからです。“過去へ連れていくタイムマシンと操縦士” のような徹底的な客観視は「過去に生きていたベートーヴェンはそういう音楽を考えたんだってさ」という他人事姿勢と紙一重であるかもしれず、それは演奏家としての責任を軽減しようとする姿勢に見える可能性もあるでしょう。


 個人的な嗜好も偏見も充分に混じっていることは承知の上で書くのですが、クラシック音楽の演奏について “タイムマシンを操縦して過去の音楽へ連れていく” という姿勢ではなく、むしろ現代に引き寄せてしまっても構わないと僕は思うのです。過去の作曲家の音楽だったとしても、それが現代社会に対してなお投げかけるものはあるでしょう。音楽の昔らしさではなく、今らしさを感じてほしいのです。


 100年、200年、300年…それほど前のクラシックの作曲家たちは、あくまでも当時にとっての “今” に訴えかける音楽を作ったはずです。もちろん過去の作曲家を発掘する活動もあったでしょうが、それは “今聴いてもこの作曲家はすげえぞ!” という文脈だったはずです。タイムマシン的な発想でクラシックを演奏するとなると、むしろ過去の作曲家たちの姿勢に反するのではないかという思いをずっと拭えないでいます。


 此度、シェイクスピアの『テンペスト』に関わってさらにこの考えは進みました。もちろん上演にあたっては時代考証もあり、当時の考え方などの解説も組み込まれています。しかしこれを現代において上演するからには、現代に投げかけられるものがありたいと思うのです。分断から和解へ向かうこと、許し合うことをテーマにした『テンペスト』は、コロナ禍などで剥き出しになった対立や分断へのメッセージを投げかけるでしょう。シェイクスピアの生きた時代が過去だとしても、タイムマシンなと使わずともそのメッセージは今ここにあるのです。ここに持っていることを伝えるために僕は上演に関わっているのです。


 

「タイムマシンの操縦士」を名乗ったり目指したりすることは一種の権威主義と言えるかもしれません。しかし一見すると誠実そう・忠実そうに見えるものです。


 ただ、その外面的忠実さよりも、演奏者自身が「俺はこの音楽についてこんな風に考えるのだが、どうかね?」と投げかけることを優先した方が、作曲者の意図はさておき、等身大の現在性が宿ると思います。しかもこちらの方が、演奏者自身の負う責任は重くなりますが、新しい音楽が生まれる可能性は高まるでしょう。そしてそれは、クラシック音楽の作曲家たちが長い歴史の上で挑んできたまさにその姿勢に重なるものではないでしょうか。


 特に他人の考えを変えようというつもりはありませんが、少なくとも僕はタイムマシンの操縦士をするつもりは無いということを表明しておきたいと思うのであります。

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