忘れた頃に上がる話題に “クラシック音楽の敷居”、要するに「足を運んでもらいにくい」というものがありますが、個人的にはまず “敷居” 云々の問題ではなかろうと思っています。日本の場合は社交パーティーのようにドレスコードがあるわけでもありませんし、マナーと言っても要するには「騒音を出さない」くらいのものです。したがって僕はこの話題を“敷居”ではなく”溝”と呼んでいます。
どちらかと言えば既存のクラシックリスナーを集められることよりも、クラシックの演奏会にあまり足を運ぶ機会が無い人に興味を持ってもらえること、あるいはクラシックリスナーでも珍しい音楽を進んで聴きたがってもらえることの方を重視しているのですが、この目的を達成するにはそもそも聴きに来てくれるかもしれない人たちの “興味” のセンサーに引っ掛かることが大事なのではないかと感じたりします。クラシック音楽の集客の苦労話は嫌というほど聞きますが、一般の人たちが最初からクラシックに興味を持っているとは限らないでしょう。他の音楽とでも、あるいは音楽以外のものとでも、関連付けることによって人々の興味に食い込むことは可能になると考えます。それはまた、その人の日常に乗り込むことでもあります。
例えば僕などは、音楽史とは関係無しに20世紀初頭という時代に惹かれます。明治の終わりから大正あたりの文化趣向が好みに合致するのですね。では、その同じ時代のヨーロッパはどのような音楽を聴き、どのようなファッションを着て、どのような家具を使っていたのか…などという興味に繋がってくるのです。榎本をコンサートに誘きだそうと思ったら「大正ロマン」とかいうキーワードを出せば確率は高いでしょう。歴史×音楽、科学×音楽、美術×音楽、文学×音楽、演劇×音楽、地理×音楽…考えてみるとアイデアは色々出てきそうです。ちなみに個人的には美術×音楽を見ると詳細を読んでしまいます。
また、具体的な他分野と絡めなくとも、人間の普遍的な感情などを前面に打ち出してみるのも一手かもしれません。それこそベタな話、作曲家たちが恋人に宛てて書いた作品特集なんていうのをやってみると、PRの文句も浮かびやすいのみならず、統一感のあるプログラムとしても成立したりします。
その方向に深めると、例えば登場人物たちの愛憎関係を描くオペラについてPRする時に、単にその時代の物語や舞台の設定のみを押し出すのではなく、現代にも通じるであろう愛や憎しみといった感情をどのように観察し、考えるか、そしてその心からどのような音楽が発生するのか…などということに意識を向けさせるのもよいのではないかと思ったりします。僕が今、伴奏を練習している曲の中に、レオンカヴァッロのオペラ《道化師》の中のネッダのアリア『鳥の歌』があります。束縛から自由になりたい感情を鳥に寄せて歌います。無理な結婚からの不倫(からの殺人)…という状況まで同じではなくとも、その歌の心が現代の我々に共鳴する可能性は十分にあるはずです。特にオペラなんて現代の倫理観からすると表面的にはアウトな要素も含まれていたりするわけでして、むしろそんな作品であっても、僕たちの今の人生に刺さるものがあったからこそ僕たちはそれらを演奏しようとするのでしょう。暴言や下ネタや差別表現を含むシェイクスピアの演劇を現代に上演することにも同じ意義があると思います。
人々の日常生活と地続きであること、その身に覚えがあると感じさせること。それが、クラシック音楽との溝を埋める一つの手段ではないでしょうか。ただでさえ時代という観点で現代とは隔たりがあり、そこに関しては変えられるものではありません。しかし、そのギャップがあってもなお、作品が現代の僕たちに伝えるものはあると思います。そしてそれは、僕たちの人生にとって決して他人事ではないかもしれませんよ。
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