【感想】大内暢仁『バッハへの道 そして バッハからの道 Vol.2』
- Satoshi Enomoto

- 4 時間前
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10/25に友人のピアニスト 大内暢仁さんのコンサート『バッハへの道 そして バッハからの道 Vol.2』を聴いてきました。これは必ず行かねばと思って予定を何が何でも調整し、今月は毎週末に東海地方へ行っていた中でもこの日だけは空けました。
以下ネタバレ込みで感想を書きます。
プログラムは大内さんこだわりのリューベックとブクステフーデによって勢い良く滑り出し、このコンサートの世界観を強固に確立します。作品単体が既に興味深いという事実もさることながら、それよりも強烈に印象付けられるのはブクステフーデが暮らしたリューベックの町という、このプログラムの始まりとなる舞台です。
大内さんの演奏技術か、作品の工夫か、会場の構造か、あるいはそのどれもかが要因となって、大内さんのピアノはオルガンのように響きます。単音の物理的音色がオルガンに似ているというのではなく、疾駆するパッセージから発生する響きの総体がオルガンの幻影に限りなく接近していくようであるということです。
パンフレットにはゲマトリアに基づく分析が載せられており、実際にそのイマジネーションの通りに音楽を作って演奏していることが判ります。具体的な標題を持たないはずの音楽から情景が浮かんで見えるようでした。
今回のプログラムはバロックに限定されるものではありません。20世紀のリゲティの《ムジカ・リチェルカータ》終曲、存命のクルタークの《遊び》から〈Cのプレリュードとワルツ〉〈無窮動〉が挿入されます。これらは音楽に対する「リチェルカーレ(探求する)」としての作品です。特に《ムジカ・リチェルカータ》終曲は〈フレスコバルディへのオマージュ〉という副題を持ち、フレスコバルディの半音階をモデルにしたことは明らかであり、このコンサートのテーマとも一応繋がりがあることを見て取れると思います。
前半最後の作品はパッヘルベルの《リチェルカーレ ハ短調》。僕も初めて聴いた曲でしたが、冒頭の半音階が明らかに先ほど演奏されたリゲティに似ているのです。それどころか、リゲティを先に聴いていたことが要因となって、パッヘルベルのリチェルカーレにおける半音階上行・半音階下行の錯綜が容易に聴こえる…いや、勝手に耳に流入してくるような感覚を味わいました。リゲティのこの曲は実は僕も弾いたことがあったのですが、コンサートの曲目の一つとしてこのような使い方ができるとは思いもしませんでした。
「聴き手の耳をどのように拓くか」という視点の工夫も取り入れられたプログラムであることを、この時に気付くことになります。
後半は4曲続けてシャコンヌとパッサカリア。長調か短調か(長旋法か短旋法か)の違いはあれど、4曲とも同類のベースです。特にヴァイス→ブクステフーデ→ビーバーは、ヘクサコルドで「ラソファミ」と表すことができるバスに拠ります。ここにおいても、大内さんの演奏は時に激する情感を、時に柔らかく温かい音色を混ぜ込んで同じバスの反復を飽きさせない音楽作りを行っていました。そこらへんのロマン派の月並みな演奏よりも断然情感的でした。
プログラムの最後はリスト《J.S.バッハのカンタータ『泣き、嘆き、憂い、慄き』とロ短調ミサ曲〈十字架につけられ〉の通奏低音による変奏曲》でした。これも僕は大内さんに教えていただくまで知らなかった曲でした。いつぞやにクローズドの試演会をやった際に「この曲の譜読みを始めた」という話とサワリくらいを聴かせていただいたくらいで、全貌を聴いたのは今回が初めてです。
この曲のバスもまた、半音階を含みつつも「ラソファミ」を骨格としています。加えて、リストが自らの娘の死に際してこの曲を書いたという一般的な解説を、大内さんはゲマトリアも駆使して作曲技法上の視点へさらに一歩深掘りします。
華やかな超絶技巧を繰り出すリストの傾向は、確かにリストの一側面に他ならないでしょう。しかし、少なくともこの作品における超絶的な激しいパッセージの数々は、聴き映えを狙っただけのものではないと思われ、大内さんはまさにその前提に立って演奏していました。技巧を見せつける肉食的な嫌らしい表現を完全に削ぎ落し断ち切り、まるで精神の苦難に直面した人間がそれを乗り越えようと全身全霊をもって闘うかのような演奏であったと言えます。
大内さんの演奏で聴く限り、作品の終盤に聴かれるルターのコラールは恐らくきっと「めでたく救われた」表現ではないでしょう。リストは救われたからこれを書いたのではなく、救われていないからこそこれを書かざるを得なかったのでしょう。何もめでたくはないし、何も幸せではないのです。むしろだからこそ、このようにコラールを書かねばなりませんでした。
この作品におけるリストはもはや達者なスーパー・スターではなく、悲しみに圧し潰されそうな一人のただの人間であります。しかしそれでもリストは「闘うこと」と「祈ること」をもって生きようとするわけです。一般にリストの「超絶技巧」と「僧侶」というイメージは相反する二面性として言及されることが多いかもしれませんが、もしかするとこれらはリストの中では「生きること」という同じ一面であったのではないかとさえ思いました。
そのように思うほどまでに、大内さんの解釈と音楽作りは徹底されていたと思います。僕の中でリストのイメージは大きく転換したことを認めます。今後「リストの最高傑作は何か?」を問われたら、この《J.S.バッハのカンタータ『泣き、嘆き、憂い、慄き』とロ短調ミサ曲〈十字架につけられ〉の通奏低音による変奏曲》を答えるでしょう。
オスティナート・バスに乗って「人間がどうしようもなく人間であること」を味わうところまで運ばれる深淵なるプログラムであったと思います。まさかリストの作品を聴いて落涙することになろうとは自分でも想定していませんでした。
アンコールは3曲、バードの《笛と太鼓》、バルバストルの《大砲》、バッハの《無伴奏チェロ組曲第1番》の〈プレリュード〉でした。バルバストル(あるいはバルバトル)はハイドンより少し年上のフランスの作曲家で、この曲は大砲の音としてトーン・クラスターが用いられています。このコンサートの10日前に見つけて練習したというのが大内さん本人の談です。リストを聴いて情緒ぐっちゃぐちゃになっていたところにバッハが沁みました。
仲良くしている音楽家仲間が独自の音楽を極めているのを見ると、凄いなぁと思いつつも身が引き締まります。自分もこういった音楽をできるように努力せねばと思いました。








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