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【雑記】フライング拍手・フライングブラヴォーを撲滅せよ

  • 執筆者の写真: Satoshi Enomoto
    Satoshi Enomoto
  • 10月17日
  • 読了時間: 6分

 記事タイトルの通り、これらに関して僕はフライング拍手・フライングブラヴォー完全否定派です。自分の演奏に関してはそもそも聴きに来る方々が良心的である場合が多いので(そりゃあこんな奇妙なプログラムをわざわざ聴きに来てくれるのだから)、フライングでこれらが飛んだことは今までにありませんが、しかし自分が聴く側でいる時に同じ客席から飛び出したこれらの被害に遭ったことは何度もあります。


 自分の経験した中で特に許せなかった例を挙げるとすれば、ミューザ川崎でシェーンベルク《グレの歌》を聴いた時でしょうか。大編成の合唱とオケから放たれる大音響の残響がまだ全然残っている内にフライング拍手もフライングブラヴォーも起きたのですから、どんなに不快であったかは想像していただければと思います。ジョナサン・ノットはまだ手を下ろしていませんでした。フライングで拍手やブラヴォーを飛ばす人々はいかにもコンサート馴れしているような素振りをしつつも、指揮の見方は知らないようです。


 演奏者側からすると、どんなに早く拍手やブラヴォーが起こったとしても、それが音楽を全部味わい切った直後のものであるか、それともフライングでやってやろうと企んでやったものであるかは判別がつきます。どんなに興奮が高まっていようとも、音楽を味わい切った後の拍手やブラヴォーはどうしても一瞬の間が空くものです。この一瞬の間が無いものは「予めフライングでやろうと思っていたな?」と思えます。


 まあ、この「どんなに早くても一瞬の間が空く」ということは去年の自分のリサイタルでシェーンベルクの《ピアノのための組曲》を弾いた時に実感したことでしたが…



 このように記事によって苦言を呈すると、決まってクラシック音楽を快く思わない界隈が「ほら見ろ、クラシック音楽は拍手やブラヴォーのタイミングを指定してくる自由の無い連中だぞ!」と鬼の首を獲ったかのように攻撃材料としてくるので、予め釘を刺しておきます。


 この記事は拍手やブラヴォーの「タイミング」の話ではありませんし、ましてや「拍手」「ブラヴォー」を否定するものでもありません。糾弾すべきは「フライング」の部分であり、言うなれば「コンサート中はスマートフォンが鳴らないようにしましょう」というものに類する話です。演奏中に客席のスマートフォンが鳴ってもいいじゃないか…というのは流石にそのようなコンセプトのコンサートという極めて特殊な例でだけであり、それ以外は基本的に人災です。


 演奏者視点でないとあまり実感されにくいとは思うのですが、演奏はその終わり方にもこだわりをもって作られています。徐々に消えてゆく終わり方か、鋭く断ち切られる終わり方か、それは音楽ごとに異なるでしょう。それでも「徐々に消えてゆく」や「鋭く断ち切られる」などといった表現をじっくり聴いていただきたいという思いに変わりはありません。


 フライング拍手やフライングブラヴォーは、その「終わり方」の表現を騒音によって妨害するものです。演奏者は音楽の終わりを演奏している最中であるのに、拍手やブラヴォーがそれを掻き消してしまうのです。このような意味においてフライング拍手やフライングブラヴォーは、曲の終わりではない曲の途中で事故的に鳴るスマートフォン、飴の袋のガサガサ音、パンフレットを落とす音などと大差はありません。いずれも演奏・観賞の両面において邪魔であります。フライングブラヴォーは口のマナーモード設定を忘れているようなものです。


 フライング拍手・フライングブラヴォーについて、知り合いから「映画のエンドロールで席を立つみたいなこと?」と聞かれました。正直な感覚としては、エンドロールどころではなく「映画の最後のセリフが終わった瞬間に席を立つ」くらいのことをやっていると思っています。最後のセリフの後にも表現があるだろうがよ!という点で共感してくださる方も一定数いてくれると思うのですが、これが音楽となると「最後の音を出した後にも表現がある」ということはわかりにくいのでしょう。


 バルトークの代表作《アレグロ・バルバロ》の自筆譜を見てみましょう。一般に出版されている楽譜にもきちんと書かれていますが、最後に全休符の2小節があります。これは決して無意味な空白ではなく、かと言ってとりあえずどんな長さでも無音を作ればよいというわけでもなく、厳密にフレーズに則した結果確かに存在する2小節です。演奏者は確かにここに納得して弾いていると思います。最後の打鍵をした瞬間が音楽の終わりではないのです。


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 音楽の終わりの表現が事故的に妨害される原因として、拍手やブラヴォーという人声か、スマートフォンから鳴り響く着信音か、はたまたスマートフォンから鳴り響く拍手や「ブラヴォー!」という人声の着信音か(稀少)という差異があるだけであり、音楽の終わりの表現が事故的に妨害されるという事実に違いは無いということは心に留めておいてもよいと思います。



 逆に、フライング拍手・フライングブラヴォーが起きなかったからこそ美味しい思いをした例を書いておきましょう。


 これは今年の6月にコールなみとして出演したコンサート『0次会』でのことです。コールなみが出演したステージの最後の曲は、その内容と演出も相俟って、曲が終わったところから非常に長い沈黙が会場に生まれました。特にコールなみのメンバーと示し合わせたわけではありませんでしたが、その沈黙が破られるまで全員が「呆然と立ち尽くす」演出を取ろうという合意はその場の空気で共有されました。


 そしてとうとう客席から沈黙に耐えかねて一人が噴き出す声が聞こえると、そこから笑い声と拍手が大きくなって会場を包み込みました。あのような経過で拍手と笑い声が起こったことはこれまでの僕の人生ではありませんでした。そして、どんなに早く起こる拍手や歓声よりもゾクゾクした快感でありました。メンバーも似たようなことを思ったのではないかと思います。


 もうフライングで拍手やブラヴォーを飛ばして悦に浸ったり自己顕示欲を満たしたりするのは止めにしましょう。それらは演奏も観賞も傷つけるだけのものですし、むしろフライングでない拍手やブラヴォーの方が音楽の場をより快いものにすると思われます。フライングは故意にやろうとしなければできないものですから、故意にやろうとしなければ自然なタイミングに落ち着きます。普通に音楽を味わい、普通に拍手してください。



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