【雑記】多言語話者バルトーク

先日、シャーンドル・ジェルジ(Sándor György, 1912-2005)が演奏したバルトークのピアノ作品CD4枚組を中古で手に入れました。決して華美でも粗暴でもない、むしろ人間らしい温かみのあるバルトーク作品の演奏は大変に刺激になっています。

その演奏にも大変感銘を受けつつ、シャーンドル自身の手によるライナーノーツには興味深いことがたくさん書かれています。現在のバルトークの音楽像はだいぶ誇張されたものになっているのではないか…という話は長くなりそうなので今後にまわしますが、今個人的に趣味と化しつつある「言語学習」にもつながる話が書かれていたので、この記事ではそれを取り上げます。
以下に、バルトークの民謡採集に対する姿勢についてシャーンドルが書いた文章を引用します。
"バルトークが愛国心を持っていたのは確かだが、決して排外的な愛国者ではなかったし、祖国ハンガリーの音楽を他の国々の音楽より上位に置くこともなかった。それどころか敵対国ルーマニアの音楽を作品中に使ったのは祖国に対する裏切り行為だと非難されたこともあった。彼は、ルーマニア、スロヴァキア、ブルガリア、アラビアなど、自国とは全く異質の地方にとくに関心を持っていたが、14ヵ国語を話したことからも分かるように、はっきりとコスモポリタン的な人間だった。"
(訳:渡辺 正)
なるほど、バルトークの代表作でもある《ルーマニア民俗舞曲》などは「祖国に対する裏切り」とまで捉えられたのか…とも思うところですが、あまりにもしれっとバルトークの超人的なスキルが言及されていますね。
「14ヵ国語を話した」とは!?
4ヵ国語ではなく!?
バルトークの母語はもちろんハンガリー語ですが、当時のオーストリア=ハンガリー二重帝国の公用語としてのドイツ語も恐らく扱えたことでしょう。アメリカ亡命に際して英語も習得したはずです。しかしそれは彼の生活環境上の理由によるものです。それらを含めて14を数える言語を習得する理由は、もはや彼の民謡研究の他には無いでしょう(シャーンドルが話を盛っている気はしなくもないですが)。
バルトークは民謡採集のために意外と遠くまでも出掛けています。もちろん重点であったのはルーマニア、スロヴァキア、ブルガリアあたりであろうと見てよいと思いますが、実はトルコやエジプトなどの中東方面、さらにはアルジェリアにも赴いています。恐らくトルコ語やアラビア語も齧っただろうと思われます。
現地の人々に民謡を歌ってもらうようにお願いをしに行く立場であるわけですし、現地の言葉を学んで現地語でコミュニケーションを取るしかないという実務的な事情があったでしょう。民謡を歌ってくれるのは現地語しか話せない農民です。ただ、現代でも現地語を喋れると現地の人々との距離が近付くのと同じように、バルトークが民謡採集先の言語を話したことには現地民の協力を得易くなる効果もある程度あったでしょう。
また、民謡にはそれぞれの言語が密接に関係しています。いくつかの言語を少しずつ齧ってみただけでも実感できるでしょうが、流れやリズム、抑揚などが言語によって大きく異なるのです。僕自身も、日本語、韓国語、英語、ドイツ語、アラビア語をそれぞれ音読する時にはそれぞれに自分が発している音が大きく異なることを体感しています。バルトークがルーマニア、スロヴァキア、ブルガリアの民謡を研究するためにルーマニア語、スロヴァキア語、ブルガリア語を理解する必要があったのはむしろ当然のことであったでしょう。音大の声楽科の学生たちがイタリア語、ドイツ語、フランス語を一応一通り齧らなければクラシックの声楽をやっていけないということにも似ているかもしれません。
バルトークが排外主義を酷く嫌悪し、コダーイのようにハンガリーに残ることもできたはずなのにナチスの影響を理由に亡命を決めたことは、彼の民謡に対する姿勢を考えればむしろ信念に従うものであることが頷けるでしょう。他文化を蔑む排外主義者に広範な民謡研究は不可能ですし、特定の民謡民族音楽を称揚するための思惑の下に行われる民謡研究は研究と呼ぶには値しないでしょう。
僕は中学生の時にバルトークの《ルーマニア民俗舞曲》を弾いたことが切っ掛けとなってバルトークの音楽に(そしてその原料でもある民謡・民族音楽に)強く興味を持ちました。バルトークという人間自体の思想を知ったのはもっと後のことでしたが、彼の思想は常に音楽に表れていて、そこに共感した節ももしかしたらあったのかもしれません。
バルトークが多言語話者であったことは今回知りましたが、お蔭で自分の言語学習に対するモチベーションも上がりました。




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