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【雑記】楽曲解説を読んで「理解した気になる」ことへの戒め

執筆者の写真: Satoshi Enomoto
Satoshi Enomoto
4 分前
読了時間: 4分

 楽曲分析の記事を書き、楽曲分析のレッスンを行っている身として、むしろ世に蔓延る楽曲分析至上的な考え方や捉え方には異議を呈したいと思うところです。いや、正確には注意喚起や戒めに近いことを考えています。


 最近の人々は、自分にとって理解し難いものを避け、逆に内容がタイパ・コスパよく理解できそうなものを好むと聞きます。巷に溢れる大雑把な内容のショート動画を見て「わかった気になれる」という感覚は確かに心地好いでしょう。


 恐らく、音楽における楽曲解説などもそちらの方向へ寄っていくのだろうと想像します。変に謎を投げかけられて「よくわからない」というモヤモヤが残るよりは、雑でも理解できた気にさせてくれるものの方が好まれることは不思議ではありません。


 僕は苛烈なAIアンチですので、AIに対しては大いに偏見の混入した価値観を持っていることをご承知の上で読んでいただきたいのですが、「AIに書かせた楽曲解説には何の価値も無い」と考えております。実際にAIを使ってみないで文句を言うようではただのモンスタークレーマーですから、きちんと数作品について出力させてみた上で思ったことがこの通りです。


 致命的な誤情報が混入することはそれとします。僕が気に入らないのは、頻繁に言われるような上っ面の情報だけを用いて、読み手の心を上手く乗せて「理解できた気にさせる」であろう楽曲解説を生成するところです。ハルシネーション(幻覚、幻影)という現象が徐々に知られつつあるようですが、このハルシネーションがいかにも「理解できた気にさせる」ことを目指して生成されているような気がしてなりません。


 しかし、人間の方がそのような「理解した気にさせてくれるもの」を望んでいるからこそ、AIがそのように振る舞っているとも考えられるかもしれません。


 そこで僕が危惧しているのは、人々がクラシック音楽を「理解すべき知識」として扱い、「知識として理解すること」を音楽鑑賞であると見做すようになることです。「ベートーヴェンの音楽の内容を知識として理解すること」が、「ベートーヴェンの音楽を味わうこと」そのものであるかのように捉えられることです。音楽家たちがPRのためにクラシック音楽やその作曲家にまつわる蘊蓄を面白可笑しく披露することに自分が臭さを覚えるのもこれが理由です。


 僕は、音楽は究極的には知識ではなく体験であるべきと考えています。知識を演奏しているのではなく音楽を演奏しているのです。知識は音楽をどのようなものとして作り上げるかを考えるための判断材料にすぎません。「この音楽の背景が"わかった"」と言われるよりも「よくわからんがなんかすごかった」と言われる方が感想としては嬉しいとさえ思います。


 楽曲解説という文章や分析を読むことそれ自体は、喩えるならばネコの標本を提示して解剖して知識を得ているというだけのことにしかすぎません。楽曲解説を読んで音楽を理解した気になることは、死んでいる標本を解剖しただけで生きているネコの魅力を理解した気になっているようなものです。「生きているネコ」は音楽体験の中にしかいないのです。楽曲を解剖して「ソナタ形式で書かれている」ことがわかったとして、それはネコが「前足を手のように使える4足歩行である」とわかる程度のことにすぎないでしょう。


 人間が各自既に持っていて、AIが奪うことのできないものは、この身体が外界から受け取る感覚・感触であると言われます。音楽を聴いた時、絵画を見た時、料理を食べた時、ネコに触った時、言葉を喋った時、歌を歌った時などに、自分の身体が実際に覚える感覚が何かあるはずです。これらは「理解した気になる」で代替できるものではないでしょう。


 これらのようなことを考えながらも楽曲分析記事を書いて発信している自分の行動姿勢の矛盾には正直葛藤があります。結局は単純に興味を持ってもらうためにやっていることではあるのですけれど、これで読者に「音楽を理解した気になる」状態になられるのは大変に不本意ですらあります。


 実際にその身体がその耳をもって音楽を聴くまでは、ミリさえも音楽を「わかる」ことはないでしょう。ネコを撫でるまではネコの尊さが本当にはわからないのと同じように。



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© 2018 Satoshi Enomoto

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