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【雑記】音楽家の奇人変人エピソードを面白いとは思えなくなった:他者の性格や私生活を面白がることの暴力性

  • 執筆者の写真: Satoshi Enomoto
    Satoshi Enomoto
  • 2 日前
  • 読了時間: 6分

……批評家たちは私のことを変わり者として紹介しています……


……それは真実ではありません……


……私は変わり者ではありません……


……そうでありたいと思ってもいません……


……私は陰気な人間です……


サティ(秋山邦晴・岩佐鉄男 編訳)

『卵のように軽やかに サティによるサティ』より



 巷ではクラシック音楽の楽しみ方の一部として、作曲家たちの人となりやエピソードを知って楽しむということが行われています。


 いや、この楽しみ方自体はクラシック音楽に限った話ではないかもしれません。芸能人やアイドルに対しても、ファンはその演技やパフォーマンスだけを楽しんでいるのではなく、その性格や趣味などを知って楽しんでいるという面もあることでしょう。そうでなければ一個人の熱愛報道や不倫報道が大々的にニュースを賑わせるなどという現象は起こりますまい。


 それがクラシックの音楽家ともなると、今でさえ世間のイメージは「幼少期から音楽の訓練に打ち込んで一般人には理解しがたい音楽をができるようになった常軌を逸した超人ないしは奇人変人」などという奇怪なものでしょう。知名度の高いスターとして認知されたごく一部の音楽家を除いては、未だに魔術錬金術の研究にでも手を出していそうな怪しい人々と思われていても不思議ではありません。


 しかも大変に運が悪いことに、クラシック音楽の大先輩にあたる歴史上の作曲家や演奏家たちはその音楽あるいはその他の物事に対する大きなこだわり故か、一見すると一般的な価値観から逸脱したような感覚をもって、ぶっ飛んだ逸話を残してしまっているのも事実です。ぶっ飛んだ人と言っても実際には一握りしかいないはずなのですが、その一握りが悪目立ちしていることは否定できないでしょう。


 逸話にインパクトがあるだけで面白がられますし、上手い方に転ぶと興味を持たれるきっかけになったり、さらにはちゃっかり脳を焼かれたファンを生み出したりすることに繋がる可能性も無いではないのでしょう。シンドラーが垂れ流したベートーヴェンにまつわるガセ逸話は確かに興味を喚起することに成功していると言わざるを得ないでしょう。ともすると、自身にまつわる逸話や人となりの情報といったものは一種の売り物としても機能するものなのかもしれません。



 上述のようなことを踏まえて、僕個人としてはどうにもその違和感や居心地の悪さ、あるいは気色の悪さを感じるようになってきています。榎本の価値観がどちらかと言うと堅物なのでその視点からの話であることを前提に読んでほしいのですが…


 あくまでも音楽を追究する者(専攻はピアノ演奏)として自分が出せる商品は、第一には演奏、次いで録音(CDが1枚出ています)であるわけでして、さらにたまたま運良く作曲編曲浄書が自前でできるので楽譜を作って売っています。指導には嫌なほど経験があるものの自信はまるで無いので頼まれた時だけ提供しているという状況ですが、まあ一応商品ではあると言えるでしょう。フライヤーデザインやステージマネージャー業務は単純に経費削減のために自前でするようにしただけであって専門でも何でもなく、本来商品と言い張るのは畏れ多いのですが、どういうわけか他所から頼まれる上に報酬をいただけるので引き受けています。


 自分の関わるコンサートのために楽曲解説や対訳を書くことはありますが、これらについては売ったことも他所から引き受けたこともありません。僕は通訳でも詩人でもありませんので間違っても対訳自体を商品として売るわけにはいかず、ブログ記事に無料公開するのみに留まっています。僕の楽曲解説は楽曲の解説ではなくコンサート自体における曲目誘導なので他所に流用できるものではありません。文章というと、昨今はnoteを書いて売るということも頻繁に目にするようになりましたが、僕自身は「自分の文章に価値は無い」と考えているのでこれからも有料化することは無いでしょう。


 ここに述べたものが、榎本にとっての「お金を貰って売っているもの」と「お金を貰わずに配っているもの」であり、これらは「他人の目の前に出しても大丈夫なもの」であると言うことができます。このような引っ掛かる言い方をするのは「他人の目の前に出して大丈夫ではないもの」があるからです。趣味の一部はまだ外に出ても大丈夫と言えるものですが、私生活の一通りの情報の公開を持ちかけられたとしたら、たとえ大金を積まれたとしても僕は即時拒否します。もはや勤務歴すら身内以外に言ったことはありません。自分の性格や生活スタイルの一場面をもってそれを面白がられるのが気色の悪いことであることは想像がつくと思われます。



 ここまでは自分の話をしましたが、では歴史上の音楽家たちについてはどうでしょうか。彼ら彼女らも、音楽家としての商品は音楽に関わるものであったはずです。もちろん故意に奇人変人のような振る舞いをしていた音楽家も中には存在したでしょうが、現代の人々が面白がっている音楽家たちの性格や私生活は、もしかするとその音楽家にとって「他人の目の前に出して大丈夫ではないもの」であった可能性があるのではないでしょうか。その面白がっている音楽家の気質や行動が、発達障害や学習障害、あるいは何らかの病気、さらには家庭環境や虐待などに起因するものであったとしたら、それは面白可笑しいものとして扱ってよかったものなのでしょうか。


 どうせ既に死んでいる音楽家にまつわること、死人には目も耳も無いのだから、現代人が彼ら彼女らの奇人変人のように見える性格や私生活の情報を面白可笑しく消費することは何ら問題にならないと考えることも可能ではあるでしょう。榎本が抵抗を感じすぎているだけであるという見方もできます。なにせ現代は存命の人間さえも笑い者にされる時代ですし、死んだ人間について何を今更という価値観もあるでしょう。



 如何せん、その音楽家の一見常軌を逸した性格や私生活や行動が音楽と全く無関係とは言えないことが非常に難しいところです。音楽と関係の無さそうな行動や人間交際が新たな音楽作品へのヒントになる例も珍しくはありません。シューマンやベルクのように私生活をそのまま暗号化して音楽に組み込む例さえあります。


 正直なところ墓を暴くような後ろめたさを感じないわけではないのですが、それによって自分が演奏するためのアイデアに好ましいものがもたらされるのであれば一応は先人たちの名誉も守れるであろうと思えるのでいくらか気が楽ではあります。あくまでも作曲家などは、自らの経験体験を作品に反映することそれ自体によって自身の中で満足・納得することを望んでいるだけですので、調べたこちらが面白がって周りに吹聴すること無く、作曲家自身がそうしたのと同じように秘めておけばよいだけです。


 これが、音楽とは到底関係の見出だせなさそうな逸話について面白がること可笑しがることとなると、大きな違和感と抵抗を感じざるを得ません。たとえ大衆の耳目を集めるためであったとしても、もはやそれは音楽家の仕事ではなくマスコミの性だと思います。ベートーヴェンが必ず60粒のコーヒー豆を挽いたというだけの習慣の逸話が一体どのように音楽と関係があるでしょうか。それが50粒だったならば彼の音楽は異なっていたのでしょうか。


 音楽家は音楽をやっているのであって蘊蓄をやっているのではありません。タレント化する音楽家たちがバラエティ的に先人たちの逸話を開陳しては面白可笑しく消費する様子に、どうにも嫌悪を抱くようになったことをここに白状しておくこととします。

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