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【雑記】耳を欹てて音楽を味わうこと

  • 執筆者の写真: Satoshi Enomoto
    Satoshi Enomoto
  • 18 分前
  • 読了時間: 8分

 自分が面と向かって言われたわけではないものの、「クラシックのコンサートに行かない理由」を書いている人を見かけまして、その内容に反論したいと思うところがあったので今回の記事を書きます。


 榎本はクラシック側の人間ですし、今回取り上げた意見に対峙する際に「自分の価値観もやはりクラシック側ではあるな」と再認識したところでもあります。クラシック音楽を代表するつもりも立場もありませんが、それはそれとして個人的に助走をつけて反論しますのでお覚悟を。


 まず、冒頭に述べた「クラシックのコンサートに行かない理由」として挙がっていた内容を要約すると以下のようなものでした。


① 電気的な音量の増幅が無い(PAを使わない)ので音が聴こえにくい。

② 演奏中に雑談をしたり雑音を立てると注意される。観賞マナーが厳しい。

③ 飲食しながら観賞できる機会が少ない。

④ これらの要求をしてもクラシックの音楽家たちが従わない。


 …僕の記事の読者の中には、これらの意見に対して既に憤慨した方もいらっしゃるとは思いますが、怒りに任せてこれらの意見を投げ捨てるよりも懇切丁寧に批判してやった方が、この発信者が如何に偏見に基づいてクラシック音楽を考えているかを明らかにし、反対に「クラシック音楽にはこんな味わい方があるのか」と記事読者に気付いていただく切っ掛けにもなるでしょう。


 項目ごとに榎本の考えを書いていきたいと思います。



①「電気的な音量の増幅が無い(PAを使わない)ので音が聴こえにくい」


 まず、クラシック音楽に電気的な音量の増幅が無いという点は必ずしも事実ではありません。必要と判断された作品や演奏にはあります。


 そして、「音が聴こえにくい」という点は余計に定かでありません。もはやこの意見の発信者の主観、個人的感覚と断定しても差し支えないでしょう。基本的にクラシックのコンサートにおいて概ね客席は静かなもので(だからこそただパンフレットや荷物をガサゴソやっている音さえ気になる)、客席で演奏が聴こえにくいなどということは殆ど起こり得ません。たとえ2,000席の大ホールにおいても、PAを通さないトライアングルの小さな打音はきちんと耳に届きます。


 発信者は想像でものを言っているか、あるいはよほど騒々しい野外での演奏を聴いた経験だけで言っているかのいずれかであろうと考えます。J.S.バッハらの時代のクラヴィコードの音などともなれば確かに「聴こえにくい」という方も増えるかもしれませんが、それでさえも近い距離で静かに耳を傾けてみればその豊かなニュアンスが聴こえてくるものです。


 「電気的な音量の増幅が無い(PAを使わない)ので音が聴こえにくい」という考え方は明らかに基準がPAありきのものに寄ってしまっていて、それと比べてしまったらクラシックに限らず全ての生音の音楽は「音が聴こえにくい」と判断されてしまうでしょう。


 ちなみに榎本は、ロックバンドなどのライヴを聴きに行く際はきちんと耳栓を持っていかなければもれなく音響外傷になるということを経験済みです。「電気的な音量増幅を伴う音楽は音が大きすぎる」とすら思っています。クラシックのコンサートでライヴ用耳栓が必要になることは殆ど無いに等しいですから、耳栓代が浮きますよ。



②「演奏中に雑談をしたり雑音を立てると注意される。観賞マナーが厳しい」


 価値観から既に差異があると考えられますので、一先ずクラシックの聴き手としての価値観も提示してぶつけておきましょうか。


 コンサートを聴きに行くのは決してタダではありません。いくらかチケット代なり入場料なりを払うことになるでしょう。また、コンサートを聴きに行って帰ってくるまでの時間も割くことになります。そのお金と時間を注ぎ込んだ分の元を取るくらいに音楽を聴きたいと思うわけです。たとえ友人たちと一緒にコンサートに行ったとしても、演奏中は演奏を聴くことに集中したいのであって、演奏中の雑談は音楽を聴く上で邪魔以外の何物でもないのです。


 むしろ上記の意見を読んだ当初は「よく演奏中にさえも雑談をしたいと思うね!?」と驚いたくらいです。まあしかしこれは、僕が現代のクラシックの一聴衆であるからこその感じ方であるという視点も否めません。クラシックも昔(前々世紀以前など)は雑談しながらBGM程度に聴いている状況もあったという話です。


 上記意見の発信者の価値観においては、コンサートに行く目的を、音楽という環境設備を整えた場で人々とワイワイやることであると見做していると考えられます。音楽はその場を形成するための一要素に過ぎないとする価値観に立っているわけです。翻って一般クラシック聴衆は「音楽を聴くこと」こそを至上の目的としているので、その至上の目的を妨害することになる「演奏中の雑談」などというものはあり得ないどころか怒りの対象ですらあるのです。金払って時間割いて聴きに来た音楽に邪魔が入るのだからそりゃあ怒りもするというもので。


 音楽付き雑談を楽しみにライヴに行くであろう方々にとって音楽はあっても無くてもよいデザート程度のものでしょうが、音楽をこそ楽しみにコンサートに行く人々にとっては音楽がメインディッシュです。この考えはなにもクラシックかそれ以外のジャンルかという区別に一致するものではなく、音楽それ自体だけを目的に聴きに行く人々は、その音楽がたとえジャズだろうがロックだろうが、雑談が混入してくることに怒りを覚えると思います。たぶん僕もキレます。


 雑談を吹っ掛けられることも嫌であるわけですから、自分から他人に雑談を吹っ掛けようなどとは微塵も思えません。自分から雑談をしようとすることによっても音楽の聴取は妨げられてしまいます。音楽は口を開けていれば勝手に運び込まれてくるようなものばかりではありません(そういうものもあるでしょうが)。自分の中の雑音をシャットアウトして、丁寧に耳を欹てて、耳が音楽を受け止める準備ができていることによって聴こえてくる音楽の味わいもまた存在するものです。


 演奏家視点での話を例に挙げますが、音量を絞るパッセージは「音楽的にどうでもいい」から音量を絞っているのではありません。むしろ「聴き手がここの音楽に注意を向けるようにする」ために音量を絞るというテクニックがあるのです。音量が絞られるので、それでも音楽を聴こうとする聴き手は耳を欹てるのですね。


 静寂を用意した聴覚が音楽によって微かに波立ち、そこに顕れる情感を味わうという体験は、雑談しながら喧しい音楽に乗っているばかりでは味わえないものです。


 ここぞとばかりにシェーンベルクの《6つのピアノ小品》Op.19の例を挙げておきましょう。この僅か9小節の小品において、表記される強弱記号のレンジは 'p' から 'pppp' です。この音楽が持つ張り詰めた空気感は、ちょっと不用意な大きめの音を出しただけで壊れるでしょう。演奏者が細心の注意を払って演奏することは当然ながら、聴き手の方にも緊張感が求められる音楽となっています。


 これを堅苦しいと考える価値観もあるでしょう。それでも、そのようにしてようやく初めて聴こえる世界もあるのです。


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③「飲食しながら観賞できる機会が少ない」


 最近は飲食しながらクラシックを聴くコンセプトの会場も増えてきましたし、僕も何度もそのような会場で演奏しています。コーヒーと紅茶も提供しています。「機会が少ない」と発信者は書いていますが、現実にはそのような機会は決して少なくはなく、ただそのような会場やクラシックのコンサートに足を運んでいないだけでしょう。


 飲食しながらですのでどうしても調理や配膳の音は入ってしまいます。したがってそのような会ではプログラムもその状況に耐え得る曲目を選ぶことにはなっています。先ほど挙げたシェーンベルクなどは耐えられないでしょうね。


 この「飲食しながら」についても、先述②の「演奏中の雑談」を肯定する価値観の下に出てきた意見であると捉えることができます。きっと昔の王族貴族たちも演奏をBGMに食事や雑談をしたことでしょう。ある意味、演奏中の飲食・雑談をすることによって王族貴族の追体験は叶うことでしょう。僕は王族貴族ではないのでその感覚はわかりませんし、体験しようとも思いません。



④「これらの要求をしてもクラシックの音楽家たちが従わない」


 これが一番気に入らないのですけれども。「せっかく言ってやっているのに」という意識がバシバシ伝わってくるわけですが、ここまで批判してきたように特定の限られた価値観の下にある意見を出されたところで、そうでない価値観によって作られるコンサートがあり、感じられる音楽もまた存在することは事実です。


 聴衆人口が少ないことに悲鳴を上げているくせに生意気な!と思われるかもしれません。しかし、観客の動員数は商売としての価値とは概ねイコールではあるでしょうが、音楽としての価値とはイコールではありません。封建時代のクラシックの音楽家たちは召使いだったかもしれませんが、現代のクラシックの音楽家である我々は召使いではありません。


 クラシックにおいて大切にしたい味わいを捨てて、ポピュラーの価値基準に迎合してまで観客を増やしたいとは思いません。そのように迎合して増やした聴き手は、僕たちが大切にしたい要素を聴くことは無いでしょう。クラシック音楽に対する助言か何かのつもりで発信されたのかもわかりませんが、生憎その内容は結局何の役にも立たないであろうと言えます。



 音楽の場に雑談だの飲食だのという要素を付け加えてワイワイやろうという考え方は大変結構ですが、そのような考えを持つ方々はもう少し音楽自体に耳を欹ててみてはいかがでしょうか。雑談をしていても飲食をしていても勝手に聴こえてきてくれるような音楽は特定の範囲のものでしかありません。手を止めて、口を噤んで、心を鎮めて、耳を欹てて、音楽をうことを体験してください。

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