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【音楽理論】楽語の意味を元になった言語としての意味に求めてよいのだろうか

  • 執筆者の写真: Satoshi Enomoto
    Satoshi Enomoto
  • 1 時間前
  • 読了時間: 7分

 楽譜を読む時、様々な楽語が目に入ってくることでしょう。それらの楽語の意味を知るために、我々はまず楽語辞典を引くことになります。検索エンジンで調べる方もいらっしゃるでしょう。出てくる情報の多少の差はあれど、概ね共通した「楽語の意味」には辿り着けることと思います。


 ここで好奇心の強い方は、その楽語の元となっている言語上の意味についても調べようとするかもしれません。楽譜上の言葉の多くはイタリア語ですが、ドイツ語やフランス語などもあるでしょう。楽語についての辞書ではなく、言語についての辞書も引くことになるわけです。


 言語としての元の意味を知ることによって「だから楽語としてはこのような意味になるのか」と納得できる場面も多々あると想像されます。それ自体は学びとして結構なことです。


 ところが、問題提起はここからです。果たして楽語の意味は言語の意味と本当に同じでしょうか?


 「言語の意味から楽語の意味が導き出されているのだから、意味が異なるわけがないのでは?」と思われるかもしれません。しかし、楽譜における楽語の用いられ方は、会話や文章における言語の用いられ方よりもずっと記号的であるということを留意せねばならないでしょう。



 例えば、最も言葉遊びの餌食になっているものの一つが 'Andante' でしょうか。現在広く言われる「ゆっくり歩く速さで」などという受け止め方は音楽的に殆ど何も定かではないですし(皆さんは同じ速さと方法でもってゆっくりと歩くのでしょうか?)、由来元である 'andare' も意味としては walking ばかりではなく going もあるということも指摘はできるのですが、考えるべき点はさらに広く深いと思います。


 18世紀の辞典の Andante の意味には「規則的な足取りで」とあるようですので、確かに going なり walking なりのニュアンスも感じられますね。それ自体は速いとも遅いとも言っておらず、しかし規則的な一定の進行をしたいからには「遅すぎず・速すぎないテンポ」というテンポ面での意味になっていったのでしょう。


 余談ですが、モーツァルトが 'Andante' に 'maestoso' を併記して速く弾かれるのを抑えたり、ベートーヴェンが 'Andante' に 'quasi allegretto' を併記して速めに弾かれるように指示している例を見ると、先人たちも誤解の無いように注意していたことがしみじみと思われます。


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 Andante は時代が下るとより「遅い」部類のテンポ表記として認識されるようになっていったわけですが、現代人は言語としての「歩く」(なぜか「進む」「行く」には注目しない)という原義と、「遅い」部類であるというテンポ実態を拾い上げて「ゆっくり歩く速さで」などという意味を仕立て上げました。その上で「歩くのってそんなに遅くないよな?」という齟齬に対する当然の疑問にすらも「昔の人はゆっくり歩いたのです」などというエクストリーム解説が為されたりするのですから愕然とします。なんで映像も残っていない時代の人々がどんな速さで歩いたかを知ってるんだよ。


 同様に、言語の辞典を引くことでそちらの意味に引っ張られる例が 'Allegro' でしょうか。言語としては「陽気な」「楽しげに」などという意味であり、そこに本来は「速い」の意味はありません。それでも陽気に演奏しようとすればある程度テンポは必然的に速い方に傾くでしょうから、結果として「速い」部類のテンポ表記として認識されました。


 Allegroもまた、言語の辞典を引いて「本来は『速い』という意味を持たない」ことを知っただけの人が「本当は Allegro は速くないんだ!」などと言うことがあるかもしれません。実際には18世紀のうちには Allegro はほぼ「速いテンポで」の意味を得ていたでしょう。


 3楽章構成の Allegro - Andante - Allegro を見た時に、それは「陽気」「規則的」「陽気」と見做すべきなのでしょうか。そのように認識することを全否定するわけではありませんが、しかしそこにある意味はむしろ相対的な「急 - 緩 - 急」という構成・関係性を表す記号ではないでしょうか。言語としては「急」や「緩」の意味を持たないであろう二つの言葉は、楽語としてはそれらの意味を持ちます。Allegro と表記された音楽の性格が必ず陽気とも限らないでしょう。



 上述のような知識を得たところで、では現代、まさに今これから楽譜を書く時にはどのように考えるべきかという問題が浮上します。こちらが楽譜の書き手として、楽譜の読み手に対して音楽の情報を楽譜の形で伝える際、楽譜の読み方の理解が共通していなければ齟齬を起こします。それは音符のみならず楽語についても同様です。


 例えば Andantino は Andante の意味を弱めたものです。しかし先述の通り Andante は最初から遅い部類のテンポ表記であったわけではありません。Andante を速めのテンポであると思っている人にとって Andantino は Andante より遅く、Andante を遅めのテンポであると思っている人にとって Andantino は Andante より速いテンポ表記となります。


 現在はすっかり Andante が遅めのテンポとして確定されているため、 Andantino の立ち位置も決まってくれました。ところが一方で、「ゆっくり歩くように」が流布しきっている今や、 Andante は前向きに進む意味では到底表記できないと思います。数字で併記もできるにせよ、原義の意味で Andante と書かれることはほぼ無いでしょうし、むしろ書いたら混乱を生むでしょう。わざわざ伝達の際に混乱を生む書き方を選ぶことはありません。


 僕は Andante の意味の正誤の話をしたいのではなく、現代における各楽語の捉え方の話をしています。古い作品を演奏する場合には当時の意味を調べねばなりませんが、現代に書かれた作品に対して古い時代の楽語の意味ないし由来元の言語の意味を反映させることが果たしてどの程度妥当であるかを留意する必要はあると思います。


 「テンポをだんだん遅く」という意味で用いられる ritardando と rallentando の間には、ritardando は「能動的に遅くする」、rallentando は「遅れる」という、元々は意識的な差があったようです。しかし現代の楽語辞書的には「テンポをだんだん遅く」という意味にまとまっています。この二つを書き分けている作曲家の方もいらっしゃることを存じておりますが、書き分けていない方もいらっしゃるでしょう。かく言う榎本は「テンポをだんだん遅く」という指示は全部 ritardando で書いています。どうせ遅くするのは変わらん。そしてさらには、楽譜の受け取り手である人々の皆が皆 ritardando と rallentando を厳密に区別できているわけでもないでしょう。


 もっと極端な例では、今や 'calando', 'morendo', 'smorzando', 'perdendosi' が全て「だんだん遅くしながら弱く」と説明されます。流石にこれらは僕でも区別するものがありますが、それはたまたま元の言葉を知識として知っていてそのイメージがあるからであって、演奏の小手先の作業としては「だんだん遅くしながら弱く」に大雑把に集約されてしまうことが理解できないわけではありません。これらの楽語が全て「だんだん遅くしながら弱く」であると一括りに認識されている現代において、例えば新しく書かれた morendo が実際には smorzando を想定したものであったとしても不思議ではないでしょう。



 楽語でない通常の言語においてすらも、決して昔のまま同じように現代に伝わっているわけではありません。日本語の現代文が古文における意味やニュアンスをそのまま保持できているわけではないのです。元の意味が失われて、現代では昔とは異なる意味で用いられている言葉もあるでしょう。


 ましてや輸入品であるクラシックの楽語が、ベートーヴェンらの時代と同じ意味でなお現代でも用いられているという保証はできないと思います。同じ見た目の楽語であっても、昔とは異なる意味で用いて現代の作曲家が新しい楽譜を書いているということは充分にあり得ることでしょう。テンポを表す楽語が言語としての意味を完全に失ってメトロノームの数字と直接対応してしまっている場合があったとしても驚きはありません。


 「現代に書かれた作品に対して古い時代の楽語の意味ないし由来元の言語の意味を反映させることが果たしてどの程度妥当であるか」という話題について、「全く妥当ではない」と言いたいわけではありません。それでも、


① 楽語の意味は由来元になった言語の意味のままであるとは限らない

② 現代の人々が認識している楽語の意味は昔の楽語の意味のままであるとは限らない


 …という点は念頭に置いておいてもよいのではないかと思います。

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