僕は学生時代にはラヴェル作品を《マ・メール・ロワ》しか弾いておらず、そもそもフランスものを比較的避けてきていました。例外はフランクとドビュッシーとサティの有名どころ程度のものです。ようやく最近になって一念発起してラヴェルの《ソナチネ》を弾いてみたら意外と楽しかったもので、引き続き頑張ってみようと思って今は《水の戯れ》を練習し始めています。
そのような立ち位置ですので、僕は全くラヴェルの研究者などではないどころか、もはやレパートリーとしてさえいないピアノ弾きです。そんな状態の僕はようやくラヴェルのピアノ作品の低音域の問題、つまり音楽構造的に本当は欲しい音が一般的な88鍵のピアノの音域の下方にあるのではないか…という問題に遭遇することになりました。どうやらラヴェルが好きな方々にとっては既知の問題であったようですが、備忘も兼ねて記事に書いておきたいと思います。
まず、《マ・メール・ロワ》や《ソナチネ》においてはこのような問題はありませんでした。《ソナチネ》の終楽章には88鍵のピアノの最低音Aを弾く箇所が1箇所だけありますが、それは上部にある和音とも整合性がある音です。
《水の戯れ》の中ではこの最低音Aを弾く箇所が3箇所あるのですが、ここにきてようやく「特殊効果などの可能性を排して考えた場合、これは和声的にはAではなくその半音下のGisなのではないか」と思われるものと遭遇したのです。

いずれも和声的に考えればGisであるように思われます。その一方でアクセントで打ち鳴らされる音でもありますから、「打楽器的効果を狙って書いたもの」という捉え方も不可能ではないのでしょう。複調的な音選びによる打楽器的効果というピアノ書法自体には前例もあります。それをラヴェルが知っていて意識していたかどうかまではわかりかねますが…
現代にいる自分の視点からすると「そこまで打楽器的効果を出したいならばA単音ではなくて隣音も巻き込んでクラスターにしない?」などということも考えてしまうのですけれども、1901年当時のラヴェルがそこまで考えるとはさすがに思えません。
個人的な感覚の話をしますと、自分で練習しているとだんだんと最低音のAがその上方のGisと「オクターヴでない音程」を作っているのが聴き取れるようになってくるので…正直なところ僕はGis派です。
まあ、この話を考えたところで88鍵のピアノでは最低音はAまでしか出ませんし、現実的にはどうしてもAを弾くことになるのでその表現を考えることになってしまうのですが、音域が広い92鍵や97鍵のピアノならばGisを弾くこともできますし、Aを弾くかGisを弾くかという思考は全く無駄なものでもないと思います。
この話題を振ったところ、同世代の作曲家やピアニストたちから様々な考えやその他の例が届けられました。なるほど、ラヴェルの演奏経験の浅い僕が知らなかったことがまだまだあったようです。確かに『鏡』や『夜のガスパール』などについて曲自体は知っていてもきちんと楽譜を読んだことはありませんでした(楽譜自体は持っているが「当分弾ける気がしない」ので読む優先順位が低い)。
『鏡』の《洋上の小舟》には実際に88鍵ピアノの最低音の半音下のGisが表記されているようでした。恐らくこれも現実的にはAで代用することが多いのでしょう。

…と思っていたら、このGis音が書いてあるすぐ手前の部分ではやはり「和声的にはGisっぽいのに音域が足りないのでAを書いた」とも見られる箇所がありました。

『鏡』は《水の戯れ》から4年後の作品です。音域が足りないことは開き直って音域外のGisを書くようになったのかなと思っていたのですが、そのようなわけでもないかもしれないと思い始めました。《水の戯れ》とは異なり、《洋上の小舟》では「打楽器的効果」と捉えるのも難しいように感じます。
また、『夜のガスパール』の第3曲である《スカルボ》においても、ピアノ自体の音域に配慮せざるを得なかったであろう部分を見ることができます。下の譜例に示した連続するFisis-Gis-Disという音型の中で、唯一最初のものだけA-Ais-Disとなっています。そのAが88鍵の最低音ですから、FisisもGisも普通は弾くことができません。しかもFisisからGisへ半音上行する動きも鳴らさねばなりませんから、苦肉の策としていずれも全音上げてGisis-Aisという方法を選んだのでしょう。低音域ですので幸か不幸かピッチは判りにくいのでしょうけれども…

この話題において僕は、Aが誤りであるとか、Gisが正しいとか、鍵の数がより多いピアノで弾くべきであるとか主張するつもりは一切ありません。もし仮にAより下の音も弾くことが可能である時に(92鍵や97鍵のベーゼンドルファーを弾ける機会もあるでしょう)、演奏者がどのような考えに基づいてどの音を弾くのかということが重要であると思います。
「とりあえず楽譜にはAと書いてあるからAを弾かなければならない」というものではないと考えます。「本当はGisが欲しかったけれど、そこに鍵が無かったから仕方無く楽譜には最低音Aを書いた」などという可能性も完全には否定できないでしょうし、「Aしか弾けなかったから "アクセントを付けて打楽器的効果" ということにした」ということもあり得るかもしれません。もしも本当に打楽器的効果を望むのであれば、そこにはAの代わりに思い切ってクラスターを書いたり弾いたりしてもよいのではないでしょうか。
繰り返しますが、どの音を弾くのが「正解」であるという話題ではありません。しかし、演奏者各々がそれぞれの考えに基づいてそれぞれの回答を用意する必要はあると考えています。
なお、このような音域問題を抱える作品はラヴェル以外にもあります。例えばババジャニアンの《6つの音画》の終曲にはラヴェルと同様に「本当はGisが欲しかったと思われるA」が書かれています。ハチャトゥリアンは《ピアノソナタ》では開き直ってGisを書いています。バルトークの《ピアノソナタ》や《ピアノ協奏曲第2番》はさらにずっと下方の音を要求する非常に有名な例でしょう。メラルティンの《ピアノソナタ第1番》では88鍵のピアノの最高音Cの半音上のCisが要求されますが、上方に音域の広いピアノは極めて稀です(一応存在はしているらしい)。カウエルの《富士山の白雪》では高音域の腕クラスターがあっさりと鍵盤の範囲を越えていきます。
弾けないものは弾けないという状況も現実ではありますが、その箇所で何をしようとしたのか、何を目的としていたのかを考えることによって、表現の方法は様々に工夫されることになると思います。
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