一つ断りを入れておきますと、僕自身はスピリチュアルなものに対して本当にどうも受容性がありません。オカルトとかむしろ好きな方だったりもするのですが、それに関してもどちらかというと人間の想像力の逞しさの方に感銘を受けているのでありまして、特に内容を信じているわけではないというのが実際です。榎本も遂にスピリチュアルに行ったか!?と思われそうなタイトルですが、比喩として良いなと思ったので記事にするというだけの話であることをご了承ください。
無音の音楽として有名な《4分33秒》を書いたケージ(John Cage, 1912-1992)は、カウエルやシェーンベルクに師事した後、世界が第2次大戦に向かっていく時期に、パーカッションの合奏による音楽を創作していきます。ケージのパーカッション作品創作の切っ掛けになったのが、フランスからアメリカへ渡った孤高の前衛作曲家 ヴァレーズが書いた西洋音楽史上初の打楽器アンサンブル作品《電離(イオニザシオン)》…と言いたいところでしたが、ケージ自身が「その作品も聴く機会があって知ってはいたけれど切っ掛けは別(要約)」ということを言い残しているのでした。
ケージがパーカッション音楽に導かれた本当の切っ掛けは、映画制作者であったオスカー・フォン・フィッシンガーとの出会いであったということです。映画の音楽を書ける人としてケージを紹介されたフィッシンガーは、ケージに "あらゆるものに宿る精霊" の話をします。
フィッシンガーは、この世界にあるあらゆるものには精霊が宿っていると言います。そしてその精霊たちは解き放たれるのを待っており、ものに宿っている精霊を解き放つには、そのものに軽く触れて音を出すだけでよい…と語ったのでした。
この話を受けたケージは、楽器に限らないありとあらゆるものにどのような音が宿っているのかを、とにかく鳴らしてみるということを試み始めます。当時のケージは貧乏であり充分な楽器を買い揃えることができなかったという要因も相俟って、鳴らす対象はゴミ捨て場のゴミや、台所や居間にある家具にまで及んだようです。
以上のケージの話はこの後、ヴァレーズの音楽との相違やノイズへの興味へと移っていくのですが、今回話題にしたいのはそのような深遠な話ではなく…。
過去の自分の演奏も割とその類であったと思うのですが、昨今は派手な演奏が持て囃されるぶん、ガチャガチャとした弾き方が蔓延している状況を指摘できるでしょう。むしろ音数の多い曲などはコントロールをより徹底せねばならないわけですが、一生懸命に指を動かしてマシンガンを乱射するように音の弾丸を繰り出しているような演奏は、まあ確かにカッコイイと感じられる面もあるのかもしれないとは想像しつつも、そこにはやはり要らない喧しさが伴うように感じます。
そういう弾き方は止しておきなさい…とだけ言うのは簡単ですが、身体が癖としてそのような弾き方を続けてしまうことは多々見られるものです。そうなってくると、耳を使って確認することは前提として、どのような音楽が出てくることを望むかという心理的な面も影響してくるのではないかと思われます。
そこで、ケージがフィッシンガーから聞いたという精霊のエピソードがヒントになると思ったのです。ケージの場合は楽器として扱われるもの以外も広範囲に対象としていましたが、少し狭めて考えても「楽器には精霊が宿っている」というイメージに繋げることはできるのではないでしょうか。
"楽器には精霊(音楽)が宿っている。精霊は解放されるのを待っている。精霊を解放するためには、楽器に軽く触れて音を出すだけでよい" …イメージ上のみのことではありますが、このように思うだけでも少しは戒めが利くでしょうか。気合いに任せてガタガタと弾かずとも、音楽は解放されるでしょう。後は解放された音楽に耳を澄ますだけです。
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