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  • 執筆者の写真Satoshi Enomoto

【雑記】作曲家の人生を追体験までしなくても


 ピアノ弾きあるあるだと思うのですが、例えばショパンなんかを弾く時に「恋愛をしなければショパンの音楽は弾けない」などという余計なお世話すぎる言葉を言われたりすることがあります。


 別に恋愛したってピアノの技術が上がるわけでもなければ、それでショパンの音楽語法に納得がいくということもなく、もはやそのような言説は一体どこから発生したのだろうかということばかり疑問です。しかし、これと似たような精神論が言われるシーン自体は何故か少なくないでしょう。


 この言説の根元にあるのは「作曲家の人生を追体験しなければその音楽はわからない」というものでしょう。それが如何に極論であるかは、ベートーヴェンの中期以降の音楽を耳が聴こえなくならなくても弾けることを考えればわかるはずです。



 

 だからと言って、外面的に楽譜という座標に打たれた情報だけが全てではないでしょう。そして音楽作品は決して、作者の人となりや思想と全く無関係ではありません。もちろん作曲家の人生体験が音楽に大きな影響を及ぼすことは当然のようにあります。


 要点は、その作曲家がどのような体験を経てどのようなアイデアを持ち、それがどのように作品に表出されているのかを想像することでしょう。恋愛をすること自体が大事なわけではなく、恋愛なら恋愛でショパンがどのような心情を得て、それがどのように音楽へ投影されたのかを考えることが大事であるはずです。シューマンならまだしも、ショパンがそういうことを作品にわざわざ投影しようとするとは個人的にはあまり考えていませんが。


 それに一言に恋愛というものをしたところで、人それぞれにその感じ方は異なるものです。同じ体験が同じ心情を生み出すという保証はどこにも無く、むしろ出てきた異なる心情を、体験が同じだからと言って同じ心情であると見なしてしまうことさえ起こり得ます。あなたの恋愛はショパンの恋愛にはならないわけです。


 他人の人生から出てきたものを自分の人生基準に引き寄せすぎる考え方であると言ってもよいのかもしれません。


 

 それはそれとして、作曲家自身の考え方やアイデアという視点に立って音楽を考えることを試みるのも重要ではあると思います。


 例えばJ.S.バッハの音楽は一般世間に「クラシック音楽」と認識されている範囲内では古い部類に入るでしょうか。まあ確かに21世紀から見たら昔の音楽でしょう。


 しかしそれは19世紀や20世紀の音楽を知っているから、それらに比べれば古いということにすぎません。当のバッハ自身が知っていたものは、バッハ以前の音楽であり世界であり思想であるわけです。そちら側から見た時のバッハの音楽は一体どのような姿でしょうか。最先端にして総括たる位置を占めていたかもしれません。


 さらに遡って "Ut, Re, Mi, Fa, Sol, La" というヘクサコルドを楽曲に組み込んだルネサンスの作曲家たち。もちろんこれは音名ではなく階名としての役割を持ちます。固定ドとか言っている場合ではありませんし、まだ調性や機能和声といった考え方も確立されていません。どのようなことを美しいと考え、何に配慮して音楽を作り、どうしてヘクサコルドを音楽に組み込んだのか。それらを考えることによって、演奏のための方針も見えてくるでしょう。


 

 これらのことはほんの一例にしかすぎません。どうしてドビュッシーは全音音階を使ったの? どうしてシェーンベルクは主音を作らないようにしたの? …などといったことさえも、音楽に限らない人生体験の結果であったかもしれないのです。そしてそれは実際に追体験までせずとも、調べたり想像したりしてカバーすることができるでしょう。


 目の前の楽譜のみにしか関心が向かないというのも困りますが、かといって作曲家の人生やその経験を変に重視しすぎる必要はないと思います。



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