先日レッスンで生徒に中世の音楽の話をしていまして、メインではなかったのですが中世イベリア半島のカンティガにも軽く言及しました。トルバドゥールやアラブ音楽との関連も調べてみると面白そうだなとは思いつつ、近代音楽好きの榎本にはとある作品が浮かんできました。
それは、先の12月に弾いたヴィラ=ロボスの《ブラジル風バッハ第4番》です。この作品はそれぞれタイトルを冠する4曲から成りますが、そのうちの第3曲目のタイトルが何かと言うと『アリア:カンティガ』であるわけです。これはカンティガのシンプルなメロディが中間部でブラジルのサンバに化けるという、初聴だと意表を突かれる曲です。
中世という遠い時代の音楽だけれども、近代にこのような形で "カンティガ" が繋がっているんだよ、というだけの小ネタのつもりで音源を聴かせようと思ったのでした。手前味噌ですが、ついでに僕が演奏しているところを見せておくのもよかろうと考え、12月に弾いた時の映像を見せたのでした。
普段は座学を教えている人がピアノソロを弾いているのを見るだけでもなかなか刺激的だったようですが、カンティガが云々ということよりも、ヴィラ=ロボスという作曲家に大きく興味を惹かれたようでした。ブラジルの作曲家という時点でクラシック音楽の中でも特異な立ち位置にいますが、バッハを好み、ブラジルの民謡収集をしつつ、フランスに留学して最先端の音楽を採り入れ、圧倒的勝ち組人生を送った作曲家だったりします。
明快でエネルギッシュな作品が多いので、ヴィラ=ロボスを聴いてブラジル沼に落ちる人は少なくないのでは、と思っています。ピアニスト的にもかなり美味しい作曲家ではありますね。ピアノ協奏曲はなんと5曲も書いています。
ところで本題はヴィラ=ロボスではなく、実際の音楽を聴かせて伝えていくことの重要さ…というか、音楽を伝えるには音楽をするのが最も効果的であるという一周回った実感です。
講義やレッスンでなくとも、コンサートのプログラムノートやMCにおいて、音楽についての言葉を費やす機会は多々あります。僕は今もこうやってブログを書いていますし、アカデミックな場では論文を書いたり、一方の日常生活の場ではSNSで積極発言したりという音楽家も多いでしょう。
言葉を尽くすことは悪いことではないと思います。言葉によって腑に落ちることもあるでしょうし、またコンサートに行けないような現代社会の隙間時間には音楽にまつわるコラムなんかを読むのもまた一興でしょう。文章を読んで興味を喚び起こされ、コンサートに足を運んでみようと考える人も出てくるかもしれません。
しかしやはり、このような発信は最終的には音楽に辿り着いてもらうための導線(コンサートへの導線、音楽聴取への導線)でしかないとも思う次第であります。音楽さえ届けられてしまえば、後はどうにでもなると言いましょうか。百の言葉を尽くすよりも、一の音楽を届ける方が音楽の説得力は強いわけです。
実のところ、これまでにもそのような経験はありました。下手にモーツァルトについて色々喋るよりも、その音楽を相手の耳に印象付けてしまった方が記憶には濃く残るでしょうし、12音技法を詳しく解説するよりも、演奏自体によってヴェーベルンの音楽を面白いとか美しいとか感じさせてしまった方が聴き手を沼に引き込むには手っ取り早いのです。演奏者側が様々な知識を得て研究をしていることは大切なのですけれど、それはあくまでも手品のタネとしてだけ機能していれば充分であるということです。階名ソルフェージュの推進についても、あくまでも科学的な話は最低限指導者が知っていればよいことであり、人々を引き込むには階名で合唱している響きが美しいと感じさせるとか、そのワークショップを体験していただくなどの方が効果的だったりするのかもしれません。
"(言葉を)聞く" と "(音楽を)聴く" という二つの言葉を使って "百聞は一聴に如かず" などと言ってみますが、音楽として聴かせた方がより伝わるということを再確認した次第であります。指導者自身が実演できることは大切であるという話ともリンクしてくるでしょう。そこに言葉を加えて初めて鬼に金棒と考えます。金棒を持とうとする前に、自身が鬼でなければならない。
コロナが拡大している中、コンサートも軽はずみに企画できないのが現状ではありますが、コロナ後に沼の大量放出ができるように準備をしておきたいものです。あんまり言葉で沼へのガイドばかりしておいて、肝心の沼を用意していないのも不誠実かなと思いますし。導線を作っておくべく、まだ今は言葉を連ねようと思いますが、聴衆の実感として刻まれるのは百聞よりも一聴の方でしょう。
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