音楽文化を支えているのは、プロの職業音楽家だけではありません。趣味として音楽を嗜むアマチュアの音楽家や、さらには聴き専の人たちでさえも、立派に音楽文化の担い手であるわけです。自分自身で演奏も作曲もできない人が音楽文化に何の影響ももたらさないなんてことは全く無く、演奏会に行ったり音源を買ったりして音楽を聴き、そこから何かを受け取ったり感じたりするというそれ自体さえもが音楽的行為であると僕は考えます。
僕の演奏会の客層に関してはやはり何らかの形で演奏などに関わっている人が多いのが現状ではあります。つまるところ、そのような層に対しては割合PRできている一方で、そもそもクラシックに普段縁の遠い層にまで興味をもってもらうということに関しては僕にもまだまだ課題があるということでしょう。
「自分で演奏できて初めて本当に音楽がわかる」などということが時々言われます。そもそも音楽が「わかる」とは何ぞや…という点も気になるところですが、大抵表面的にはスノビズムのようにしか映らないものです。多少の差はあれどアマチュアとして演奏も行う人口が比較的多いであろうクラシックだから起こってしまう認識であるという面も無いわけではないかもしれません。
ただ、この言説を掲げられるとプロでさえも自らの首を絞めることになると思います。例えば僕の演奏と言えば、せいぜいピアノが弾けることと歌が歌えることだけです。仕事で必要だったためにヴァイオリンやチェロ、和楽器なども一時期齧ったには齧りましたが、到底弾けるなどと言ってよいレベルではありません。フルートは音が微かに出る程度、トランペットに至っては音すら出せませんでした。
ところで、僕はピアノに限らずオーケストラ曲やピアノを含まない室内楽曲も好んで聴きます。自分で演奏はできません。確かに楽器法についてまで言及することはできないでしょうが、その曲の面白さは受け止めながら聴いているつもりです。まあ「わかる」かと問われればどうかはわかりませんが。
音楽に対する視野を広げ、その豊かさを獲得するために、様々な音楽を聴くことが大切であることは納得していただけるでしょう。音楽大学では西洋音楽史や作品研究を通して自らの専攻楽器が含まれない音楽にもたくさん触れることになります。「自分で演奏までできなければわからないよ」という言説は、その学びすらも否定するものであるわけです。
しかし、では何でもかんでも曲数を聴き流せばよいのかというと、それでも効果はあるかもしれませんが、一方で "じっくり何度も聴いて味わう" ということも心がけてほしいとは思うところであります。他者の演奏を聴く時には、どうしても音楽は演奏者のペースで進んでいきます。聴き手が音楽を飲み込めるペースであるとは限らないのです。
たった一回聴いただけで、その音楽がもつ全ての要素を隅から隅まで掬い取れるような人は稀でしょう。同じCD音源でも、様々な音楽体験を挟んでからもう一度聴いてみると、聴こえ方が異なって聴こえることがあります。「こんなに情報量の多い曲だったのか!」ということもあれば、「なんだこんな曲だったか…」ということもありますね。
"聴く" ということを繰り返すことによって、自分の耳が音楽から受け取れる情報は増えていくのでしょう。
上記のことが、「演奏することによって "より" 深く音楽を味わえるかもしれない」ということに繋がってくると思います。
演奏する際には、より細かく音楽に向き合わねばなりません。外から見える完成形をとりあえず身体運動でモノマネするだけの行為ではないのです。「この音楽はどのような音楽なのか?」「この部分には何があるのだろうか?」ということをじっくりと考え、ああでもないこうでもないと試行錯誤していくことになるのです。
例えば、とある不思議な和音がここに一つあるとしましょう。
これはどのように導き出された和音でしょうか。
Eに付加9と13?
EとFmの合成?
G♯を対称軸とする鏡像?
この和音はどのような響きがするでしょうか。
Eに付加?
Fmに付加?
いずれにしても長7度音程が激しくぶつかりあいつつ、G♯がそれを調和させているでしょうか。
この和音はどんな感情を喚起するでしょうか。
熱情?
激烈?
興奮?
…などといったことを、演奏する人間は何度もこの和音を弾き直し鳴らしながら、味わい、感じ、考えるわけです。
この時、演奏者がこの和音を聴く回数は非常に多いものとなるでしょう。"じっくりと何度も聴いて味わう" ということが必然的に実現されるのです。演奏者自身は最も近くにいる聴き手でもあるのです。しかも、音楽を自分自身のペースで味わうことができます。気になる部分があればそこだけ取り出して繰り返すこともできます。
演奏をしてみると "より" 深く音楽を楽しめるようになるという要因は、ここにあるのではないかと考えられます。
演奏に取り組むことによって、旋律の歌い方を考えて実践したり、表現の工夫を考えたりします。それが習慣化することによって、他の演奏者の音楽についても「どんな音楽をやるのだろう」という感覚(あるいは勘)がはたらくようになります。
聴いた演奏をそのままのペースで受け止められる時、聴き手は同じペースでその音楽を歌うことができているのでしょう。ソルフェージュの訓練を声で歌うことによって行うことにも関わるかもしれません。(ソルフェージュで歌うことも含む広義の)演奏に取り組む人たちの方が、この能力が育成されているという事情は考えられると思います。
もちろん演奏といっても、音程も感じない、音楽も聴こうとしない、指示を機械的に遂行するような身体運動に終始するようなものではいけないでしょうけれど。
「演奏をしなければ音楽はわからない」なんてことはないと僕は考えています。聴き専の人たちにも感じるままに感じてほしいですし、あるのはそう受け止めたという事実だけです。色々な音楽をたくさんじっくり聴いてきた人はそのような耳をもっているはずです。
そして「演奏に携わる人たちにしか感じられない感覚がある」という話は両立すると思います。音楽をたくさんじっくり聴く機会が多いという事情によって繋がっているのではないでしょうか。確かに演奏やソルフェージュをやってみることによって、感覚が変わってくることはあると思います。
結果として演奏をしない人たちを劣っているように言ったところで、良いことは無いでしょう。
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