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  • 執筆者の写真Satoshi Enomoto

【感想】横山博ピアノリサイタル『ジョン・ケージを探せ!』


 2022年3月27日に行われた、ピアニスト横山博さんのリサイタル『ジョン・ケージを探せ!』の感想を書かせていただきたいと思います。


 今回のリサイタルはケージとフェルドマンをメインに据え、そこにグラスと坂本龍一の映画音楽を交えたオール現代プログラム。フェルドマンとケージはもう亡くなって長く、そろそろ現代の古典に入りそうではありますが。



 ケージの作品はどれも知っていたものですし、《ある風景の中で》は弾いたこともあり、坂本龍一の《Merry Christmas Mr.Lawrence》に至っては言わずもがな。一方でフェルドマンの《インターミッション》群とグラスの映画音楽は初聴でした。


 予めプログラムを確認した時の印象としては、ケージとフェルドマンは似通いつつも、ミニマルのグラスと、確かにミニマルには近そうな(?)坂本龍一がどう絡むのか想像がつかなかったのが正直なところでした。きちんとその疑問は後で解消されたのですけれども。



 

 ところで、実際の演奏の感想に入る前に一つ、個人的に印象深かった要素が音楽の外にありました。それは豊洲シビックセンターのホールがガラス張りであったということです。もちろん外の音は遮音されていますが、夜の街が煌めき蠢く様子が常に演奏の背後に見えており、それが音楽と非常にマッチしていたのでした。


 最初の曲、ケージの《ある風景の中で》は僕も弾いたことがありますが、その時は掴み所がいまいちよくわからなかったことを覚えています。構造は比較的シンプルなはずだと思うのですが、それらを成す一連の音の扱いをどうすべきか迷ったまま、緩急のあるオルゴールのような演奏に仕上がったのでした。しかし今回の横山さんの演奏を聴いて、想像していなかったこの曲の一つの実現形を知ることができました。


 横山さんはメロディを実体のある音色で鳴らします。新しいメロディが出てきた時には「音楽(風景)が移り変わった」ことが聴き手にしっかりと届くのです。夜の空間に新しい光が明滅して動いてゆくような音楽は、まさに舞台の背後にある街の風景と見事にシンクロしたのでした。予測不能な街の動きを背後に見ながら、予測不能に発生する音楽に意識を向けるという観賞姿勢がここで一気に築かれたと思います。


 グラスの《the hours》を設定したのはミニマル・ミュージックの変化する様子を届けるためであると受けとりました。グラスならばピアノ曲は他にも色々選択肢はあったはずですが、今回弾いたこの曲は比較的変化に富んでいて、そのことが予測不能に変化してゆく音楽としてリサイタルの文脈に沿っていたように思います。演奏からもそのような方向性が感じられたのですが、いかがでしょうか。


 後半の坂本龍一《Merry Christmas Mr.Lawrence》は、そのようなグラスと似た方向性のアプローチで演奏されたように感じました。フレーズのまとまりごとに、一々その場から発生するように弾かれていたのは印象的でした。元々の曲を既に聴いて知っている人たちにとっては違和感のある演奏に聴こえたでしょうし、僕にも映画のイメージは浮かびませんでした。そもそも今回のリサイタルの文脈や演奏した目的がそちらではないということなのでしょう。


 前半のフェルドマンの《2つのインターミッション》そして《インターミッション第6番》は、ケージのそれよりも予測できない音楽でしょう。僕はフェルドマンの音楽に詳しいわけではないのですが、「好いと思った音」を直感で紡いでいく音楽であると認識しています。音の繋がりの面白さはさることながら、音と音との間(あいだ)にある間(ま)の気迫が素晴らしいものであったと思います。


 このフェルドマンが後半のケージの《4'33"》の観賞に大きな影響を及ぼしたように感じました。皆様もご存知の通り、《4'33"》は沈黙の音楽です。演奏者がピアノを鳴らすことは無いということは予めわかっていますし、もちろん横山さんもピアノを鳴らすことはありませんでした。しかし、その前のフェルドマンの音楽が沈黙のエネルギーを挟みながら流れていくのを聴いてしまっていたために、個人的には横山さんがピアノを弾いてしまうのではないかとハラハラしたものです。単純に「その場で起きた音が全て音楽」というだけのものとは思えなかったのはプログラムの妙でしょう。


 その次の《0'00"》で音が存分に響いていることにどれほど安心したかをご想像ください。どんな方法によって演奏するのか気になっていたのですが、まさかのスマホの操作(タッチパネルの操作音、通知音、カメラのシャッター音)、それに伴う動作の音でありました。しかしそれらの挙動の音が聴こえるだけでも、《4'33"》の緊張とは対照的に弛緩を味わうことができました。


 最後の曲目、フェルドマン《マリの宮殿》によって、予測不能に発生する今宵の音楽の総括が行われました。25分あまりに渡って流れ続ける音楽に耳を傾けるうちに、もはや今この作品のどこを聴いているのか、始まってから何分経って、あと何分残っているのかすらがどうでもよくなる感覚を覚えました。


 

 クラシック的な作品を聴取する時、僕たちはその曲のどの部分がどのようになっているか、どのように音楽が進行し展開し、そこにどのような意味が投影され、聴き手に何を投げかけるのかを考えるでしょう。今回のリサイタルのプログラムや演奏は、そのような考え方では捉えることができないものでした。展開も意味も無く、音楽が発生し滔々と流れては消えてゆくというそれだけのことであります。


 現代音楽とは言われますが、そこにあったのはむしろ原初の音楽だったのでしょう。刻一刻と変わる夜の街の明滅する光の風景のように、音楽はそこに存在します。聴き手に寄り添っては消えていくという、人間と音楽との距離に、妙な生命感を感じたリサイタルでした。




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