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  • 執筆者の写真Satoshi Enomoto

【雑記】音楽と感情


 「ここの音楽はどんな感情?」などという問いを投げかける人を見かける機会は決して少なくはないでしょう。それならばまだしも、「感情を込めて!」というナイーヴで抽象的すぎる指示を指導者が出し、生徒もわかりましたと言わんばかりに大袈裟なわざとらしいアクションで演奏をしようとする構図が見られることもあります。


 まず初めに言ってしまえば、音楽は必ずしも人間の感情を描こうとしているとは限りません。音楽は現象として見てしまえば “様々なパラメーターを持つ音の組み合わせ” にすぎないのです。音楽が表そうとして表せるものはただ音楽でしかないということです。


 そしてそのこととは別に、音楽を聴いた人間がその音楽によって特定の感情を喚び起こされるということもまた事実であるのです。作曲者が人間の感情を表そうと全く思わずに作った音楽であったとしても、それは聴き手の感情を喚び起こすのです。この時、“感情” は音楽の中ではなく聴き手自身の中に存在するわけでありまして、自身の中に湧き起こった感情をまるで音楽が持っていたものであるかのように認識して「この音楽には感情が込められている!」という評価を下すのです。


 つまりは “感情の込められた音楽” ではなく、“感情を喚び起こす音楽” を目指すことを意識した方が、結果として “感情の込められた音楽” という錯覚の感動を聴き手に届けることに近付きやすいのではないかと考えております。


 

 このブログでも何度か引用しているC.P.E.バッハ(Carl Philipp Emanuel Bach, 1714~1788, J.S.バッハの次男)の演奏論があります。


 音楽家は自分が感動するのでなければ聴衆を感動させることはできない。したがって彼は、聴衆の心によび起こそうとする全ての情緒(アフェクト)のなかに自分も浸ることがどうしても必要である。彼が自分の感情を聴衆に示し、そして彼らをそれに共感させるのである。


 一見すると、C.P.E.は「感情を込めて」を肯定しているように見えます。しかし、ここで考えねばならないのはその感情を “示す” 方法であるわけです。決して顔芸をしろという単純な話でもありませんで、どのような音楽を行えば自分の感情が “示される” のか、“届く”のか、相手の心の中に “喚び起こされる” のか…ということが重要なのです。“こめる” ことが “示す” を叶えるとは限らないのです。


 ただし、この引用の前半でC.P.E.は、外に出る表現ばかりを気にして感情が排されることに対して釘を刺してくれる良いことを書いています。


 相手の感情を喚び起こすように音楽をやることが大事だと言いましたが、相手の感情を喚び起こす方法を体感として知るためには、自分が感情を喚び起こされる経験をしなければならないのです。これは実体験に限ったものではなく想像でもいくらかカバーできるものでしょう。自分の感情を軽視し、技術のみで相手の感情を煽ろうと考えるのも、また目指すべき音楽とは離れているように思います。


 どんな音楽を届ければどのような感情を喚び起こせるか、という最も身近な判断基準は、自分の感情が喚び起こされるかどうかです。自分の心がそれを知っているかどうかにかかってきます。音楽によって、「ウキウキした気持ちになる」ということを判断するためにはウキウキした気持ち自体を知っていなければいけませんし、「胸が切なく締め付けられるような気持ちになる」ということを判断するためにはやはりそのような感情を経験しておかねばなりません。また感情には言葉で到底言い表せないものも広く存在しまして、それらを生きている中で体感としてでも持っておけば、いざ抽象芸術である音楽によってやはり言葉で言い表せない感情を喚び起こされたとしても、心がきちんと適合してくれるでしょう。


 たまに「恋愛をすると音楽が良くなる」などという、どこからどう見ても眉唾同然のことが言われたりします。んなわけあるめぇ!と僕も当初は思っていたのですが、それは極端な言葉の綾というものでありまして、「感情の幅を拡げよ」ということなのだと考えるようになりました。おそらく真っ最中におきましては客観などあったものではないでしょうから、すぐに感情の判断が利くようになるということは稀でしょう。それら新しく得られた感情は、整理され切った時に初めて、一人の人間の “感情” として音楽の指針となるのかもしれません。


 ところで、僕には「エモい」という言葉を嫌う友人がいます。この形容詞の由来は「えもいわれぬ」…ではなく、「emotional」から。感情が高まっている状態を表すスラングであります。この「エモい」は今やほぼ一般に浸透しつつある言葉ですが、僕の友人の危惧は色々な方向性を持ち得る感情の高まりを「エモい」の一言で安くまとめられることにあるのではないかと勝手に思っています。つまるところ「エモい」という言葉で言い表してしまうことによって、その感情に向き合うことを止めてしまうのです。このある種の十把一絡げ感こそ、安易な「感情を込めて」という、フワッとしすぎて厳密なことを何も言っていないような言葉にも通ずる気がします。「エモい」にしろ「感情を込めて」にしろ、一見すると感情を大切にしていそうで、実は雑に扱っているという一面があるかもしれないと思います。


 

 僕はピアノやソルフェージュや音楽理論を教えているわけですが、ピアノでただプログラムされた通りに動いて結果の現象としての音楽再現を目指したり、あるいはソルフェージュや音楽理論で音楽の構造を解き明かすだけで終わったりするのは違うと思うのです。それは喩えるなら、レシピに書かれた分量をきっちり守るだけで味見もせずに提供したり、あるいは料理に使われた材料やレシピを解明して満足するようなものです。そこに感情が入り込む余地は殆ど無いでしょう。


 その音楽が相手にどんな感情を喚び起こすかを考えることは、喩えるなら、料理を作ってあげた相手がどんな顔をして食べるかを想像することでありましょう。喜んだ顔が見たかったらどんな工夫をすれば良いでしょうか。


 これと似たようなことを音楽でも考えるわけです。どんな音楽的工夫を施したならば、聴いた相手を嬉しい気持ちや切ない気持ちにすることができるのでしょうか。この思考と決行によって相手の中に感情を喚び起こすこと、それこそが「感情の表現」の達成でありましょう。


「ここは少しだけテンポを落とします」

「この旋律はドレミファソラティドです」

「この和声進行は Ⅴ → Ⅵ で、偽終止と言います」

「この曲はソナタ形式でできています」


 などというのは音楽の表面だけの話しかしていないのです。これが音楽の感情表現になるためには、


「ここは束の間の安らぎを感じさせたいので、少しだけテンポを落とすと実現できるでしょう」

「この旋律はドレミファソラティドという長音階の上行形によって強い意志で訴えようとしていると考えて、クレッシェンドをかけてみましょうか」

「この和声進行は偽終止であり、予測を裏切るように全終止とは異なる収め方をすると驚きを覚えるでしょう」

「ソナタ形式で、性格が異なる第一主題と第二主題がコントラストを成しています。第一主題はアクセントを際立たせて、反対に第二主題はメロディの息を長く歌わせると対比がついて楽しめるでしょう」


 などと、どういう目的でそのような音楽になっているのかを知識も感情も総動員で考えることが必要になると思います。「感情を込めて!」の一言と気合いだけで解決するような話ではないことはご理解いただけるでしょう。


 

 どのような音楽がどのような感情を喚び起こすのか。考えることも必要ですし、体験することも必要です。その第一歩はやはり、音楽に感情を喚び起こされる経験をすることでしょう。音楽によって心がたくさん動いたことがある人ほど、音楽によって相手の心を動かす方法もだんだんとわかってくるものです。音楽の感情表現は、単純に「感情を込める」という根性論のことではないと同時に、決して感情を否定して手先のアイデアに徹することでもなく、人間の “感情” という存在に真摯に向き合い、それがどのように音楽に映り込んできたかを考えることによって成し遂げられることだと思います。


 


ジェシカ「私、決まって悲しくなるのよ、美しい音楽を聴くと」

ロレンゾ「そりゃこうだ、お前が心を使いすぎるからなんだ」


── シェイクスピア『ヴェニスの商人』より


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