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執筆者の写真Satoshi Enomoto

【雑記】ピアノ弾きが陥りやすい(?)バッハ観の話


 周りを見ていて、色々な音楽に対する色々な意見を目にすることは多々あります。その人にとってそのように受け止められているということ自体は決して悪いことだとは思いません…が、それによって世界への視野が狭い方へと収束していくことを勿体無いとは思います。


 そのことに関して例はいくつも挙げられるのですが、ひとまず今回言及したいのはJ.S.バッハ(1685-1750)についてのことです。僕もバッハについてそこまで知っているわけではありませんが…どころか、むしろ"よくわからない"作曲家の一人とさえ思っているくらいですが…



 僕自身がピアノ弾きであるために目につくことが多いのでしょうが、概してピアノ弾きはバッハの特定の作品のみに意識を向けすぎる節があるように見えます。


 それもそのはずで、ピアノの学習における慣例とも儀礼とも捉えられそうな教材のルートが確立してしまっているからです。すなわち、《インヴェンションとシンフォニア》からの《平均律クラヴィーア曲集》という取り組みの流れのことです。声部が2声→3声→4声以上…と増えていく順で並べられたということなのでしょう。


 僕も例に漏れずそのような経路でバッハに取り組み、《インヴェンションとシンフォニア》は一通り弾いたものの《平均律~》は両巻あわせて5, 6曲を師匠の下で弾いた程度で、今やすっかり放置しています。


 《インヴェンションとシンフォニア》と《平均律クラヴィーア曲集》、この両者に取り組むこと自体は重要であると言えます。それはコンクールや音楽学校の入試課題になるからという外面的な理由ではなく、声部の弾き分けという小手先の技術の鍛練にも留まらず、音楽における調和と表現の方法を演奏のみならず作曲の面からも学ぶためにでしょう。


 問題は、これら《インヴェンションとシンフォニア》《平均律クラヴィーア曲集》に取り組むために「他のバッハ作品を割愛する」という方針であると言えるかもしれません。ピアノ弾きが好んで弾く《イタリア協奏曲》《ゴルドベルク変奏曲》あたりはさておき、《フランス組曲》《イギリス組曲》《パルティータ》はどの程度取り組まれるでしょうか。いや、まだこれらは認知されているだけ良い方でありまして、ピアノ弾きが一体どれほど「ピアノだけでは弾けないバッハの作品」に興味を持っているでしょうか。


 バッハの対位法作品は確かに重要です。しかし、バッハがそればかり書いていたわけではありません。オルガン曲も協奏曲も組曲も、カンタータもソナタもミサ曲も書きました。それらに目もくれず、特定のピアノで弾ける作品のみに打ち込むことは、一見真摯に見えて興味を広く持たない姿勢であるかもしれません。バッハの対位法のみを祀り上げ、それだけをバッハとして扱うどころか、バロック時代自体を体現するものとしてさえ扱ったりする人さえいるものですから、流石にそうではないのではないかと思うところであります。


 できることはいくつかあるでしょう。まずは、たとえ自分の演奏する楽器がピアノであっても、他の作品に接するようにすることです。そして、公の場で演奏するほどのクオリティまで持っていけなくても構わないので、通奏低音を体験してみることも良いことだと思います。カンタータの中の1曲でもやってみると、慣例的な学習ルートからは聴こえないバッハが聴こえてくるかもしれませんよ。まさかバッハが声部処理の習得のためだけにあれらの曲集を書いた筈はないでしょうから。


 この記事ではバッハについての話題を出しましたが、特定の作品ばかり勉強することによって音楽イメージの固定化が起こるという現象は全般に言えることでしょう。誰しも興味は狭まりがちです。自戒も込めて、この話題を書き残しておきます。

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