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【雑記】過去の作品や演奏は先行研究であるのだろう

  • 執筆者の写真: Satoshi Enomoto
    Satoshi Enomoto
  • 3 時間前
  • 読了時間: 3分


 戸塚で活動中のシニア合唱団・コール柏桜の伴奏にここ数年ずっと行っているのですが、そこの指揮者の先生(同じ高校のOBでもある)から100冊ほど古めの楽譜をいただきました。捨てるのは躊躇われると先生が言っていたのを聞いて即決で「じゃあ貰います!」と手を挙げた結果です。


 世間の楽譜コレクターには及びませんが、演奏会を企画するにあたって参照したり、実際に演奏したり、あるいは楽曲分析や音楽史のレクチャーに使用したりするために日頃からアンテナを巡らせています。最近は学生時代のように大量に買うことは無くなりましたが、今でもふとした拍子に「昔欲しかったけれど買う機会を逃してしまった作品」の楽譜に出会えたりはします。


 手元で図書館・博物館まがいのことをしていたいという思いもあるといえばあると自覚しています。蒐集したこれらの楽譜は「演奏やレッスンのためのツール」であると同時に、先人たちの音楽そのものについての先行研究の結果物であるとも考えています。


 僕は基本的には演奏家ですが、時々作曲も行います。古い楽譜の数々を見ると、先人たちがどのように考えてどのような音楽創作を試みたのかを知ることができるでしょう。先人たちが既にやった音楽を知ることによって、そこからようやく「これからどのような音楽創作を試みることができるか」を考えることができると思います。車輪の再発明は個人の中では意味のあることであると考えていますが、公に問うには二番煎じどころではないでしょう。


 まだやっていないこと/まだできていないことを判断するために、もうやったこと/もうできたことを確認するという意味で、過去の作品に触れることは重要ではないかと考えます。



 時期を同じくしまして、シャーンドル・ジェルジ(Sándor György, 1912-2005)のバルトークのピアノ独奏作品アルバム(1990年代の録音の方)を手に入れました。シャーンドルと言えばバルトークの弟子であり、バルトークの遺作となった《ピアノ協奏曲第3番》の初演ピアニストです。


 齢80のシャーンドルの演奏は流石に高齢を感じさせはするものの、現在のピアニストたちの気合いと迫力によって押し通すような演奏とはニュアンスが異なっています。確かに打楽器的なニュアンスはあるものの、その方向性は叩いても殴ってもおらず、良い意味で「格好良くない」と評せるかもしれません。


 バルトークの音楽がいくらリズミカルと言えど、現代価値観でビートを前面に押し出したような方向性は、もしかするとバルトークの意図したものに沿っていない可能性があるのではないかと思い直しているところです。別にシャーンドルこそが全部正しいと思う必要も無いのですが、しかし僕の中ではシャーンドルのバルトーク演奏が納得感のあるものとして地位を獲得しつつあります。


 過去の演奏家たちの録音や、さらには現在活動している演奏家たちの演奏一つ一つがまさに研究の成果発表の位置にあるのでしょう。「これ本当に研究したか?」みたいな演奏も紛れ込んではいるであろうものの、折角先人なり同時代人なりが研究成果を発表しているのだから、そこからも色々なことは学べるはずです。感銘を受ける時もありましょうし、他山の石なパターンがあってもそれはそれです。



 楽譜、演奏の話題を提示しましたが、先人たちの研究を参照することの重要性は音楽に限った話ではないでしょう。人類がどのように歴史を歩み、どのように過ちを犯したかについて参照し、その過ちを繰り返さないためにどのようにすべきかを考えねばならないのではなかったでしょうか。


 冒頭に写真を載せた楽譜は譲り受けたもののうちの一つですが、先人から何か言われているような気がしてならないところです。

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© 2018 Satoshi Enomoto

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