【ソルフェージュ】異なるものには異なる名前を
- Satoshi Enomoto
- 36 分前
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階名(いわゆる移動ド)に関して、固定ド派からは「移動ドは同一の音名の音の名前が変わることが非効率である」という旨の批判が届くことがあります。
移動ドを用いる人は並行して日本語なりアルファベットなりの音名を用いており、音名的観点からの不具合は特に感じられるものではありません。僕は小学生の時からドイツ語の音名を使っていますが(師事した先生の指導方針)、派生音も短く言いやすいのでむしろ便利なくらいです。
この点は軽く済ませつつ、本丸は「同一の音名の音に対して様々に変わる階名を考える必要があるのか」ということでしょうか。
これについて例となる図を手描きで作ったので、それを見つつ説明を加えます。

上に5つの調を挙げました。それぞれの調にはE-F、E-Fis、Es-F、Es-Fisという2音のいずれかが含まれています。
固定ドではこれらを全て「ミファ」と歌います。名付けの基準は五線譜上の音符の位置です。歌わずに名前を言うだけならば「ミのフラット」や「ファのシャープ」などと言えることもありますが、歌うともなると変化記号は口に出さないことになります。つまり「ミファ」と歌いながらも、それは短2度(E-F)だったり長2度(E-FisまたはEs-F)だったり増2度(Es-Fis)だったりします。ここにおいて「ミファ」という名前は、もはや定められた音程も音高も示しておらず、五線譜のどの線間に音符が書かれているかという紙面上の様子を言っている状態です。
一方で、上記に示した5例が全てそれぞれに異なるものであることは認識していただけていると思います。
E-Fという2音についても、その性格や力性、機能はC-DurのE-FかF-DurのE-Fかで異なることがお判りになるでしょうか。C-DurではFがEに向かって解決し、F-Dur ではEがFに向かって解決します。E-Fという同じ音名をもつ2音は、C-DurとF-Durでそれぞれに異なった振る舞いを見せます。
翻って、C-Dur、D-Dur、Es-Dur、F-DurにはDur(長調、長旋法)という振る舞いが共通しています。むしろこの「長調という振る舞い」を認識するからこそ、僕たちはこれら4調をいずれも長調であると聴き取ることができます。その音楽的組織が長調であるかどうかは、各音の絶対的音高を覚えて判断しているわけではありません。
階名は音の音楽的振る舞いを基準として、異なる性質には異なる名前を、同じ性質には同じ名前を与えます。したがって、固定ドが重視する「楽譜という紙面の上にどのような見た目で書かれているか」という基準は、階名にとっては順位の低い観点となります。絶対的な音高の基準が世界的に定められたのもここ100年(経っていない)くらいのことですから、やはり「絶対音高を示せるかどうか」についても順位の低い観点となります。
定番の喩えですが、「音楽と階名と音名」の関係は「演劇と配役名と役者名」に準えることができます。音楽を成立させること自体において重要であるのは、演じている役者が誰であるかということではなく、それがどのような配役であるかということです。シェイクスピアの『テンペスト』を上演するためには「プロスペロゥ」の役が必要であり、それは誰が演じてもよいですが、「プロスペロゥ」役が「プロスペロゥ」として動かないならばその劇は『テンペスト』ではなくなります。これは他の役についても同様です。
上図のように階名も音名も異なる例を全て固定ドで「ミファ」と呼ぶ時、それはもはや階名も音名も示してはいません。それは先述したように「五線譜のどの線間に音符が書かれているかという紙面上の様子」の名前です。見た目がなんとなく同じならば実質が大きく異なっていても一括りに同じ名前で呼んでいるようなものです。「自分が座れそうなもの」を、椅子も机も脚立もピアノも全部まとめて「椅子」と呼んでしまっては、それは椅子にしかならないでしょう。机の上に座れないことはないでしょうが、本来それは座るものではありません。
異なるものを異なるものとして区別して扱うというだけのことがどうしてここまで紛糾するのかが不思議でならないとは常々考えています。「移動ドを推奨する人の感じが悪いからわざと逆張りしてやれ」という空気は大変に居心地が悪く辟易しますが、音楽に限らず最近の世間は割合そんな具合ですね。そんなイキり方をして一体何になるのでしょうか。
