【雑記】「自分の力で稼いでいる」という感覚は自分には無い
- Satoshi Enomoto

- 2月14日
- 読了時間: 4分
「富裕層に公正な課税を」という政治主張に対して「社会主義者は他人がせっかく自分の力で稼いだ金を税として取ろうとする」という批判が為されることがあります。
なるほど、そのように見られているのか、そして現在の日本社会ではむしろそのように捉えている人が多いのか、ということは感じつつも、ここでは僕自身の感覚の話を書かせていただきたいと思います。
結論から申し上げますと、僕は自分の仕事について「自分の力で稼いでいる」という感覚は年々消滅しつつあります。いや、別に当初から「自分の力で稼いでいる」なんて考えは持っていませんでしたから、むしろこの考えに対する反感が自分の中で年々増しつつあると言った方が正確かもしれません。
まず、音楽家などという肩書きを僕は名乗っていますが、僕は富裕層や現代の擬似貴族などに召し抱えられているわけではありません。僕の仕事先の大半は音楽に興味を持つ一般音楽愛好家です。合唱をやりたい人たちのために伴奏を務めソルフェージュを教え、音楽理論を学びたい人たちのために和声を教え、音楽を聴きたい人たちのために演奏会や試演会を企画開催します。
このような人々が音楽に参加し、それに関連して榎本の音楽的取り組みに対してお金を払ってくれているからこそ、僕は「稼ぐ」という行為を行えていると認識しています。自分に力があるから稼げているのではなく、お金を払ってくれる人がいるから稼げているのです。「伴奏やレッスンを依頼してくるのだから報酬を払うのは当然である」と思うかもしれませんが、むしろ依頼人や依頼団体は報酬を用意する余裕があるからこそ依頼をすることができているのです。
そして、僕は音楽を「お金のある人だけが享受できる贅沢品」のように扱いたくはありません。タダ働きをしてあげようという話ではないのですが、それでも現時点で僕は地元町内において入場料無料の『童謡・唱歌を歌う会』(実質的にうたごえ喫茶)を月例開催したり、不定期開催の試演会『私的演奏協会』を投げ銭制で行ったりしています。
後者の投げ銭制については「満足度で金額を決めていいよ」という意味だけでなく、「無理の無い範囲で払ってくれればいいよ」という意味が含まれています。一律で入場料を定めてしまうと、生活が苦しい人もそうでない人も同じ金額を払うことになります。投げ銭制にすることによって、余裕のある人は普通のコンサートと同じくらい払ってくれたっていいですし、生活の苦しい人はタダで聴いて「SNS等に感想を書いて宣伝します」などとやってくれても構わないとすら正直思っています。逆に日本に200人ちょっといるらしい年収30億超えの方などは気まぐれに5万でも10万でも払ってくれて構わないわけです(そんな人は来ない)。
また、僕の音楽活動は僕に直接報酬などを払う人以外の人々によっても支えられています。楽譜を作った人がいます。過去にはその曲を書いた人がいたでしょう。電車が動いているから長距離移動ができます。自転車で移動するにしてもこの自転車を製造した人がいます。コンビニ(外国人労働者も多い)やスーパーがあるから食料品が買えます。管理している人がいるからホールやスタジオ、そこにあるピアノを使うことができています。衣装も普段着も誰かが作ったものです。自分が今の技術を身につけるまでに学費やレッスン代を負担した家族、指導してくださった先生方の存在も忘れてはいけませんね。
ここまで色々とやってもらって、支えてもらって、助けてもらって、作品を弾かせてもらって、お金をいただいて…それでいてなお「自分の力で稼いでいる」とは一体何事かと思います。自分の力が占める部分など微々たるものです。恐らく「自分が相応の対価を払って作業を外注したり物を買ったりしているのだから、それらも『自分の力で』の範疇である」という考えもあるのかもしれませんが、金の力で他人を必ず従わせることができるわけではありません。本来は金を積まれても従わないことはできるのです、生殺与奪の権を雇用主と賃金に握られていなければ。
各人の苦労はそれぞれにあるのでしょう。それらを乗り越えて富なり名声なりを手に入れるまでの自らの努力を誇りたい感情を理解できなくもありませんが、しかし「自分の力で」と言い切ってしまう時には、大変に多くの恩を忘れたり見落としたりはしていないであろうか、と想像します。




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