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【雑記】集団で音楽をする時の曲目に対する思いはそれぞれでよいはず

  • 執筆者の写真: Satoshi Enomoto
    Satoshi Enomoto
  • 3 日前
  • 読了時間: 3分

更新日:2 日前


 来月のHarmonia Suavisの本番に向けて、そろそろ宣伝も本格的に動かさねばと考えているこの頃です。その宣伝にあたって、参加してくださっている方から「どんな風に宣伝してほしい、どんな文言を入れてほしいなどの希望はありますか?」と質問されたので「お好きなようにやってください」と返したのでした。


 今回の記事はそこから考えた話です。



 合唱や合奏など、複数人で演奏をする際に、その音楽作品についての共通認識・共通理解は、確かにある程度は必要でしょう。表現に大きな齟齬が生じるようでは流石にまずいでしょうから、やはり最低限の方向性は打ち合わせして合意しておく必要があります。そこから繋がって、宣伝などの時に合唱や合奏のメンバーがその音楽的合意内容をPRに組み込んでくれること自体は、企画運営側からすれば大変ありがたいことではあります。


 一方で、せっかく様々な人々が合唱や合奏には集っているわけですから、各々が日々の練習、音楽作品への探究を通して、何を感じたり何を考えたり何を願ったりしているのかということにも興味があります。企画運営や指導者が何も言っていない部分において、一演奏者の方がむしろ強いこだわりと深い感動をもっているという例は、決して稀なことではありません。


 ならば、企画運営の主張はどうせこちらが投げかけるのだから、各々の演奏者は各々なりに考えたり感じたりしたことを大事に持っていてくれればと個人的には思いますし、むしろそれを前面に出して喋ったり書いたりしてくれた方がPRとしても面白いのではないかと思います。


 例えば髙田三郎の《水のいのち》を企画合唱で演奏するという一例だけとっても、企画運営や指導者の考えはそれはそれでありつつ、その企画に集った人たちの考えが全く同じであることはほぼ無いでしょう。それまでに何度も演奏していて慣れている人もいるかもしれませんし、過去に一度やった時の反省を活かしてより理解を深めたい人もいるかもしれませんし、とりあえず今回初挑戦してみてなんとなく思うところがあるなんて人もいるかもしれないわけです。


 そのように様々な差異のある人間の集団でも、一緒に演奏してみると結構まとまった音楽かできてしまうものです。各々の人間が何を考えてどんな思いをもっているのかという差異は、音楽側から見ればある意味些細な差異であるのかもしれません。


 逆に、「集団で音楽をやるのだからきちんと統一的な考えと表現を整えなければ」という方針は窮屈ではないかと思います。これは僕の好みの話にもなってしまいますが、集団依存度の高すぎる表現活動はあまり好きではないのです。音楽分野だとどうしてもちゃっかり我の強い自分が指導的立場にいることが多いのですが、普段から「榎本の表現方針に全部従わないでくれ!」と内心では思っています。


 Harmonia Suavisに限らず、合唱団DIOでも横須賀国際合唱団でも、他の団体でもどこでもこの話は同じです。合唱・合奏を成す一人ひとりが各々のこだわりや思いをもって、それを音楽にも言葉にもしてほしいと思っています。

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