【雑記】生成AIを頼らずに自力で作曲をすることの意味:自らの体験・経験とすること
- Satoshi Enomoto
- 5月13日
- 読了時間: 4分
生成AIの利用がカジュアルになりつつある昨今において、個人的には色々な観点で思うところ考えるところがあり、しかしその方向性が多岐に渡るので、まとめては言及せずにトピックごとに記事を分けて書いてきたいと思います。
わざわざ人間が頑張って作曲をせずとも、生成AIが勝手に音楽を出力してくれるような世の中になりました。もちろんAIが学習したものを元に音楽を出力するのでしょうから、元ネタが用意される必要はあるのでしょうけれども、元ネタからそれに類似する音楽を出力することにおいては、もう細かいこだわりの無い限りはAIで作業が済んでしまうことでしょう。
それこそ「AIに作曲の仕事を奪われる!」などという声も聞くことがありました。どのような層の方々がそのように考えていたのかまではチェックし損ねましたが… また、これもどの程度の人々がそのように考えているのかはわかりませんが、「作曲はAIがやってくれる時代なのに、どうしてわざわざ作曲を習得する必要があるのか」という発言も見かけました。
音楽はAIが出力してくれる。確かにそれは事実でしょう。「物品としての音楽(音源データ)が出来上がるかどうか」という視点から見れば、その音楽を人間が作ったのか、もしくはAIが出力したのかということは最早どうでもよい話です。
もちろん、生成AIが「AIを利用する人間自身が作りたいと思っている音楽」を出力してくれる保証はありません。「こんな音楽を作りたい!」という明確なアイデアがあるならばむしろ自分の手で書いた方が手っ取り早い可能性があるということは言っておきましょう。
「物品としての音楽が出来上がるかどうか」ではない視点から見た場合に、人間が作曲をするのかAIが音源を出力するのかにおける決定的な違いがあります。それは、作曲行為(作曲する過程)がその人の体験・経験となるということにあります。AIに生成を頼った場合、この作曲過程(AIの生成過程)を人間が体験することはできません。自力で書くならば作曲過程をいちいち体験できます。
極端な話、音楽作品として完成しなかったとしても、その作曲体験自体はその他の音楽活動に活かされるものであると思います。演奏することにおいても、既に楽譜に書かれたことをただただ遂行するのではなく「どうしてこのような音楽になったのか」「どうしてこの音が選ばれたのか、他の音ではいけなかったのか」を考えることになったり、さらには「実際にはこんな音楽をやりたかったのに、音符に変換した時にどうしても近似されて語弊を生むような表記で書かざるを得なかったのではないか」という想像もはたらくようになったりするのではないでしょうか。鑑賞においても、作曲者が仕込んだこだわりの工夫や、試行錯誤しただろうなと推察される箇所に気付く機会が増えるかもしれません。
そのような理由もあって、演奏家や聴き手が作曲や即興演奏を試みることについて個人的には大いに推奨すべきであると考えているのです。上に述べたような気付きは、自身の中に体験・経験があるからこそ導かれるものです。
先に述べた通り、生成AIは頼めば際限無く物品としての音楽を出力してくれるでしょう。わざわざ人間が音楽を作ろうとしなくてもそれっぽい音楽は生成されるようになったのですから、むしろ開き直って作曲を試みてしまえばよいのです。生成AIが曲を作れるようになった今、人間が曲を作ることにおいては「曲が出来上がること」よりも「曲を作ることを体験すること」の方が相対的に価値があると考えることもできると思います。
自動演奏が世に出てなお、人間による演奏が無くならなかったこととも関連があるでしょう。人間による演奏でなければできない細かなニュアンスがあるから…という理由もあったにはあったでしょうし、それは既に多く語られていますが、僕はその理由よりも「人間が自分の力で音楽を演奏することに喜びや快感を感じているから」という理由の方が大きいと考えています。自動演奏ピアノが存在していてもなお、自分の手でピアノを弾き、演奏するということを体験したいからこそ、人間はわざわざ他人に習ったり練習したりしてまで自分の手でピアノを弾こうとするのです。
きっと作曲も同じことになるでしょう。人間が自分の力で音楽を書き、その体験に喜びや快感を感じている限り、作曲行為は決して生成AIに完全に奪われることは無いと考えてよいと思います。反対に、曲が出来上がるかどうかだけが眼中にある人間の世界からは人間の作曲行為は消失するでしょう。
Comments