【雑記】五線譜に近似される音楽:音楽が這った軌跡を想像する
- Satoshi Enomoto
- 5月10日
- 読了時間: 9分
最近は今月末の近代フランス音楽のコンサートへ向けての練習に加えて、来月の湘南合唱祭へ向けても間宮芳生の合唱曲を練習しています。
練習している間宮芳生の《合唱のためのエチュード》は日本を含む世界の民族音楽の要素を採り入れた合唱曲集であり、同氏の《合唱のためのコンポジション》への準備を兼ねるものとなっています。来月はその中から抜粋で演奏することになっているわけですが、その練習の中で日本の能楽やアフリカのポリリズムに向き合っている状況です。
取り組みの中で、現在の五線譜のシステム性と、その固さに向けられている信用に対する疑いの念が以前よりも増したと思います。その詳細を書いておきたいと思います。これが歴史的真実だと言うつもりは無く、榎本視点で考えた謎や戯言を書き散らす記事であるという注意付きで読み流していただきたいと思います。
五線譜は五本の線上における音符の位置で音高を、音符自体の形状によって音価(音の長さ)を表すものとして整えられてきました。いわば座標の縦軸に音高、横軸に時間を設定してデジタルに表記するというシステムを採用したわけです。座標を読める人であれば、音高と音価を直接的に読み取ることができるものとなりました。
ところが、その表記は予め設定された目盛りに依存することとなりました。
音高であれば線の上か線同士の間という定められた立ち位置のどこかに割り振られるでしょう。現代では単なる♯や♭を超えて四分音程(短2度のさらに半分の音程)まで表記する記号も考案されましたが、刻める目盛りとしてはそのあたりが限度でしょう。目盛りを必要以上に細かく設定したところで、再現の区別は曖昧になってしまうでしょう。
音価は基本的な分割を設定するところから音符の種類が増えていったでしょう。2分割と3分割が基本的なものとして扱われ、それに当てはまらないものは特殊な連符の表記方法で書かれてきました。5連符や7連符を表記するための独自の音符の形状は無く、既存の音符の上に数字を振ることでどうにか表しています。
いつの間にか、拍子と呼ばれる周期性と、それを視覚化する小節・小節線が楽譜上に表記されるようになりました。アンサンブルをする際にどの音がどの音とどのようなタイミングの関係にあるかを見た目にわかりやすくする目的があったと考えれば、確かにその利点を僕たちは享受しているでしょう。そしてその周期が不規則に感じられることを、イレギュラーなものとして変拍子と呼んで「難しいもの」と位置付けているわけです。
五線譜は基準としての綺麗に見える目盛りを設定したことによって、綺麗に整理された表記を獲得したと言えるかもしれません。座標として合理的に整理されているからこそ、全世界的にデジタル的な共通理解を得ることができているのでしょう。
問題は「音楽そのものが言われるほど合理的であろうか」という点です。地面に書かれた目盛りに必ず合致するようにミミズが地面を這うわけではないはずです。紙の上に書かれた目盛りに必ず合致するように音楽が時空間を這うでしょうか。
キーワードは「音楽が楽譜の表記に合致するように近似される」ということです。
いくつかの項目に分けて言及していきましょう。
元から線譜(最初から5本線だったわけではない)は相対音高を記すものとして作られ、本来は絶対音高を示してはいませんでしたが、現代の五線譜では殆ど絶対音高を示すための座標として機能しています。しかしいずれにしても、その見た目がデジタルな目盛りであるということによって「音高を近似して示す」ということは起こってしまうものでしょう。
例えばここにG音(ト音)が一つ表記されているとしましょう。あなたはそれを見て一つのG音であると認識するでしょう。しかし実際の音楽の中に出てくるG音は決して特定の絶対音高のものではありません。それはGis音(嬰ト音)やGes音(変ト音)に変化するとか、または基準ピッチが変わるといったような話ではありません。そのG音を取り巻く他の音たちとの脈絡、さらにはその音楽が望む表現にしたがって、音高は微細に変動します。ある時は高めかもしれないし、またある時は低めかもしれない。同じ曲どころか、同じフレーズの中で出てくる2つのG音がそれぞれ異なる高さである可能性すらあります。そのG音がどのようなものであるかは周囲の音や表現から判断するしかなく、五線譜上には高めでも低めでもないただただ近似されたG音が書かれているのです。例としてG音を引き合いに出しましたが、これは全ての音について言えることでしょう。
また、音から音への繋がり方においても様々な振る舞いの可能性が考えられます。しかしそれもまた楽譜に表記する際には近似されたものしか書くことができません。僕が高校時代にやっていた合唱では音の摺り上げ・摺り下げは普段大変に忌避され、楽譜に "portamento" とでも書かれていない限りは厳格に排除したものです。ところが実際の音楽においては、portamentoとは知覚できない程度のportamentoの可能性があるわけです。知覚できない程度ですので、楽譜には到底そのようには表記されませんし、表記できません。
音価についても近似を指摘することができます。二つ並んだ8分音符は本当にそれぞれ同じ音価の音として存在しているでしょうか。異なる音価ならば異なる音価の音符によって表記するはずだと思われるかもしれません。しかしそれが表記されるのは、五線譜が基本的に備えている目盛りに合致する場合です。確かに2つの音に2:1くらいの音価比があったならばそれは表記されるでしょう。
しかしその理想的な音価比が例えば 12:11 という計測結果であった時、それはわざわざ表記され得るでしょうか。どうにか表記したところでその通りに厳密に再現されることは到底期待できませんし、作曲者本人すらもそこまでのフィーリングには無自覚であり「同じ音価で弾いた」と思い込んで楽譜を書いているかもしれません。テヌートを付ける程度にすら達しない絶妙な揺れが存在することは、やはり音楽の実態から掴むしかないでしょう。本当は絶妙な揺れが存在する音楽でも、楽譜に表記する際にその揺れを表記することが叶わなかった場合、楽譜に嵌め込まれた揺れの無い座標を再現することは果たして「音楽を忠実に再現した」ということになるのでしょうか。
拍子という感覚もまた、音楽から結果として抽出されるものであり、音楽が必ずしも周期的な拍子を前提としているわけではないと言えるでしょう。調性が前提ではなく階名と力性の結果として得られるものであることと類似しているかもしれません。サティの調号も拍子も表記されていない作品は、実際に演奏してみると調性や拍子は結果的に導かれます。バルトークの《ピアノソナタ》の終楽章は変拍子の典型例として挙げられることが多いと思われますが、あれは旋律がそもそもあのような形をしていて、それを一定の拍子を前提とする五線譜のシステムにしたがって表記した場合に変拍子として表記されるという順でしょう。
音楽から結果として拍子という感覚が抽出されない場合も当然のように存在します。音楽教育の方法上で五線譜を出して拍子を前提として教えてしまう手前、どうしても一定の拍子が前提であるかのように錯覚してしまうものです。間宮芳生の《合唱のためのエチュード》の中にも、言葉や節回し、メリスマなどによって一定の拍子が現れない曲が収録されています。
テンポにおいてもその表記の曖昧さを指摘することができるでしょう。「楽譜に表記されていないテンポ変動をするべきではない」という意見は一定の支持を集めていると思われます。確かに不動のテンポを要求する音楽も存在するでしょう。しかし考慮すべきはそのようなパターンだけではないはずです。
作曲者自身が「テンポを変えるべきではない」と発言・記述している場合もあるでしょう。作曲者自身はその音楽におけるテンポが不動であると認識しているわけですが、しかしそれが実際には微妙にテンポは変化していて、そのことの程度が微妙であるが故に作曲者が「テンポは変化していない」と認識していることも可能性としては捨てきれないものです。作曲者が rit. や accel. を認識する程度に達していない rit. や accel. は書かれない、あるいは書きようが無い可能性があるわけです。
作曲者の自作自演の音源を聴いて、そのルバート加減に驚いた経験のある方もいらっしゃるでしょう(逆にルバートの無さに驚くパターンもあるかもしれませんが)。「ルバートはするもの」であるという感覚があった可能性もあるでしょうが、あるいはもはや「そのルバートをルバートだと思っていない」という場合もあるのではないかと想像しています。和声や情緒、物理的身体的都合、様々な要因によって当然のものとして揺れ動くテンポであるわけです。その当然の揺れ動きを「表記されていないから」という理由だけで無視して何事も無く直進することは、果たして理想的な音楽でしょうか。
五線譜は音楽そのものがミミズのように這った軌跡ではないと考えるようになりました。言わば五線譜が果たす役割は、張り巡った音高と音価のセンサー上で少なくとも音楽が這う様子が観測されたと思われる点を示す座標でしょうか。音楽が実際には微妙に違うところを這っていたとしても、センサーが反応できる地点=表記できる地点は予め固定されてしまっているために、どうしても近似的に表記せざるを得ないのでしょう。
ではもっとセンサーを細かく張り巡らせるのがよいのかと言えば、残念ながらその精度を上げたとて、もっと細かい座標が出来上がるだけであり、音楽のミミズ自体を捕えることは叶わないでしょう。仮に捕えられたとしても、その楽譜は人間の解像度を突破し、読んで理解再現のできる代物ではなくなっていると思います。
すべきことは、座標を必死に辿ることではなく、その座標が近似された座標であることを念頭において、音楽が這った軌跡を様々な手段によって想像することであると考えます。そのことによって、座標の示す地点とは離れたところに音楽が出現する可能性もあるでしょう。確かにそれは座標を正解の基準とした視点からすれば誤りでしょう、近似された座標の再現を目指す立場からすれば、ですが。
座標のセンサーに引っ掛かった音楽は、実際にはもっと曖昧で複雑な軌跡を描いて這っているかもしれません。
…と、まあ、長々と妄想を垂れ流してみたわけですが、この話の取っ掛かりをXとTreadsとBlueskyにそれぞれ書いてみたところ、割と多くの方から好意的な反応が返ってきたわけですが、Treadsのごく一部のフォロワー外のミュージシャン(ジャズ系と思われる)からは「音楽理論否定派」と言われたりもしました。どう言われようが述べてきた上記の考えは今のところ変わらないのですが、五線譜の表記方法という具体的な和声などの理論よりも手前の話をしているところにこれを言われたものですから、妙に合理を求めたがる音楽家もいるものなのだなと学びました。音楽はさほど合理的な代物ではないと思うのですがね。
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