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【雑記】人々の輪の中で音楽を提供する役割を担う音楽家:音楽研究で学んだことを活かしながら

  • 執筆者の写真: Satoshi Enomoto
    Satoshi Enomoto
  • 4月13日
  • 読了時間: 6分

 現在、実家がある方の地元では月一回ペースで『童謡・唱歌を歌う会』を町内会主催で行っています。ただ歌うだけでなく、楽曲の背景や音楽理論の解説、そこから考え得る表現の試行などを採り入れておりまして、毎度好評をいただいております。今年度からは本格的に階名唱も採り入れる予定ですので、今後はよりソルフェージュ技能向上が見込めるものとなるでしょう。


 この会の内容は榎本が自力(&自腹)で楽曲背景や理論を調べて準備しています。これは不当な対応ではなく、そもそも町内会役員を務めていた僕自身が「ボランティアでこういう会を開催してやろうか?」と持ち掛けたことが発端でした。当時はコロナで行事という行事が悉く吹き飛んでいて、おまけに榎本自身も殆ど仕事が無かったという状況で、どうせ暇だし何かできないかと考えたことが切っ掛けだったのです。


 回を重ねるごとに内容がだんだん豪華になってきていまして、最近は画像資料まで共有しはじめました。文部省唱歌に縁のある地やその歌碑を巡ったり、古い楽譜資料を浄書することなども個人的に行って提供しています。


 

 音楽文化が発展するために必要なのは、一握りのスターではなく、できるだけ多数の音楽的一般人であるということは既に長らく言われてきております。その音楽的一般人を創出する手段として、上述の町内会の取り組みは効果的であると考えてますし、そこに関与できているということは自分にとっても非常に美味しい点であると思います。


 ただ一方で、単純にカラオケ状態のような歌わせ方で唱歌を歌わせることが人間を音楽的にするとは思いません。それは「既に歌える曲が既に歌っているやり方で歌える」以上の意味を持たないでしょう。あくまでも歌うことによって、何らかの新しい発見があったり、その人の音楽的世界が広がったりしなければならないと思います。それは歌いに来る人たちの使命ではなく、こちら準備する側がしなければならない仕事です。


 歌ってもらう唱歌を準備するにも様々なことを考えたり調べたりすることになります。確かに楽曲がもつ背景や歌詞の意味なども調べる対象に入ってはいるものの、注意しておかないと「音楽」そのものではなく「音楽にまつわる蘊蓄」を準備しているにすぎなくなる可能性もあるでしょう。背景情報を知るだけで音楽の捉え方も演奏も劇的に変わるなら苦労はありません。背景情報や歌詞などでさえも「その音楽の中にどのような工夫として投影されているか」という観点まで誘導する必要があるでしょう。


 そのため、階名唱をすることも含めて自分の手元での分析は必ず行うようにしています。それだけでも音階組織を明らかにしたり、技術的に難しい箇所や特徴的な工夫が仕組まれている箇所などを洗い出すことができます。旋律分析と言ってよいでしょう。「この曲の旋律はド-レ-ミ-ソ-ラでできています!」と示すだけでも、歌う人たちの感覚や視野は拓け、より確信をもって歌えるはずです。


 唱歌の伴奏パートは主旋律を考慮しながら僕自身が勝手に作って弾いているので、和声にまで分析が及ぶことは現状多くありません。それでも曲によっては準固有和音などが顔を出すことも決して皆無ではなく、その場合は会の中では「準固有和音」という用語は使わず、和音の聴き比べは行うようにしています。この時も「短調を借りてきているので暗い音楽になります」などという断定は避け、個々人の感覚を許容できるように「異なる感触がありますよね?」とだけ言うようにしています。


 

 それにしても、このようなネタ…もとい楽曲や題材を準備するために、楽曲分析として階名唱法や和声法を駆使し、楽曲の背景情報や歴史についても資料を掻き集めてどのような点を取り上げるのが適切かを判断し、自分でも練習して演奏のためのポイントを洗い出す…という工程は、幸いなことに音大での学習やその後の研究によって身に付けた知識技能(と言えるほどの立派なものかはわからないが…)によって成し遂げることができているという自覚があります。


 しかも一方で、この『童謡・唱歌を歌う会』の参加者の皆様からも「音楽は榎本に任せておけば色々な曲について色々調べてきて色々教えてくれる」と思ってもらえているようです。参加者の皆様にとっては月例で音楽体験ができるのですから得した気分になる面もあるのでしょうけれども、榎本視点からも「自分が勝手に好奇心で学んで調べて練習して用意しただけのことが他人にとって得だと感じてもらえているの、立場として美味しすぎるな」と思っているのが本音であります。


 昨今の世間では音楽大学や音楽専門学校に通って音楽を修めることについて「食えない」だの「将来が不安定」だの「趣味を選んだから貧乏なんだ」だのと散々に言ってくる人間が後を絶ちません。もはや音楽家の一部さえもがそれを宣う始末です。そもそも蔓延する「より稼いだ人間の方が偉い」という価値観自体がある種病的であると思いますけれども、その話は一旦脇に置くとしましょう。提供した音楽と払われる報酬の間に基本的に相関性が無いことだけ心に留めておけばOKです。


 音楽研究機関において学んだもの身に付けたもの、あるいは自身の音楽研究によって得たものが「金になっているか」ではなく「人のためになっているか」という視点で振り返った時、充分にそれらが活かされていると判断できる場面は多少なりとも思い当たることでしょう。僕がピアノを弾けば周りの人々が色々な音楽を聴くことができるでしょう。僕が伴奏を弾けば周りの人たちがそれに乗って歌うことができるでしょう。僕が階名唱をすれば周りの人たちが一緒にソルフェージュできるでしょう。僕が楽譜を書けば周りの人たちがそれを読んで演奏ができるでしょう。僕がレッスンやレクチャーをすれば周りの人たちが新たな発見をする機会に巡り会えるでしょう。これでいくらの報酬が貰えるかというのは別の観点の話でして、これらの事柄が実現できること自体に価値があるわけです。


 自分だけ音楽できるようになることだけが音楽を修めること・音楽を研究することの価値ではないはずです。音楽家自身が手にしてきた音楽は必ず人々に還元されるものであると僕は信じましょう。いや、もはや音楽の専門家でさえない音楽的一般人が手にしてきた音楽でさえもが、また別の人々のために活かされるとさえ信じたいと思います。


 音楽を専門的に学んだ人間が人々の輪の中に入って何ができるかということを今後も考えるつもりです。

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