【雑記・合唱】合唱の技術向上のために独唱をやってみた方がよいかもしれない:合唱をするための、合唱から自由である意志力
- Satoshi Enomoto
- 6月15日
- 読了時間: 5分
僕自身が合唱をやっているので合唱視点で書いているものですが、「合唱の技術向上のために」は「歌唱の技術向上のために」と書いてしまってもよいかもしれません。ともあれ、この記事では合唱における音楽技術的短所に言及することになるでしょう。
現在歌われる機会の多い合唱作品の大半は、程度の差はあれど概ね機能和声的な書法に基づくものであると思われます。そのように書いた方がいわゆる綺麗な響きになることは自分の体験としても納得しているところです。則ち、機能が感じ取れるような和声が成立するように各パートを機能的に動作させるという書法です。
和声法を少しでも齧ったことのある方であればいくらか心当たりがあると思われます。和音間に共通の音はなるべく保留され、濫りな跳躍や声部の突出は忌避され、各パートの音域は概ね限定的であり、頻繁に現れる特定の進行型が存在し、各音が何らかの機能に強く囚われるということが挙げられるでしょう。
その機能和声を聴き手の耳に届けるために、和音そのものが長くなります(同じ和音が2拍続くだけでさえも充分に「長い」と言えるでしょう)。それにしたがって歌詞のシラブルごとの間隔も広くなり、言葉自体が引き伸ばされたようになるでしょう。
合唱の歌い手自身もこの和音を愛好し、聴き手にそれを聴かせたいと考えるあまり、「和音がハモリ易そうであると思われる声」を出そうとします。則ち息の量が過多である輪郭の曖昧な声になっていくでしょう。
上記のような大半の合唱(これに該当しない合唱作品も多数あるが演奏機会には恵まれていないかもしれない…)がもつ特徴をこなしてばかりいると、合唱の歌い手の身体は(あるいは癖や考え方も)そのような「合唱の特徴(?)」に引き寄せられ、最適化されていくことになるでしょう。
この最適化は決して好ましいものではないと考えています。「合唱の自身のパートの演奏」に特化する一方で、その他も包含した「音楽一般」からは離れていくと思われます。機能の遂行は得意になっても、様々な声の出し方や劇的に跳躍する旋律の歌い方、流暢な言葉の紡ぎ方などを忘れてしまうかもしれません。
この問題の解決策として、やはり並行して独唱にも取り組むようにした方がよいのではないか?というのが、現在個人的に考えていることです。これは、それこそ先日の湘南合唱祭で間宮芳生の《合唱のためのエチュード》で謡いに挑戦してみて感じた課題でした。とにかく「合唱」をする歌い手たち一人一人が充分に「独唱」もできるようにする必要性を痛感したのであります。
それこそ能の謡を教材にしてもよいでしょうし、グレゴリオ聖歌をやってみてもよいかもしれません。あるいはモノディの声楽曲から取り組んでみる方が馴染みやすいでしょうか。教材として何を用いるかはさておき、いずれにせよ「合唱音楽的構造機能からなるべく遠く自由であるもの」が望ましいと思います。したがって、合唱曲の編曲としての独唱曲などでは本末転倒になる可能性が高いでしょう。
極端に言えば、合唱から遠い独唱ほど取り組む効果があると思います。能の謡やグレゴリオ聖歌ならばまだ大人数で歌える余地がありますから、もはや「独唱でしか演奏できなそうな歌」が最も理想的であるでしょう。極めて自由度の高い無伴奏独唱ができるとよいかもしれません。
独唱に取り組むことによって、多くの場合は合唱の時とはまるで異なる音楽に遭遇することになると思います。まるで体験した事が無い音運びに面食らうこともあるでしょう。その体験したことの無さは、合唱していた時には感じていたはずの構造機能の軛から逃れたからこそ実現されたものです。独唱の範囲が広いのではなく、合唱の範囲が狭いのです。
榎本が合唱disを始めたかのように見えるところですが、あくまでも合唱内において機能している構造機能に対してどのような姿勢で立ち向かえるかどうかがカギであることに言及するのがこの記事の目的です。
合唱という編成の音楽そのものが、その構造機能あるいは力学の中に、歌い手たる人間を取り込んで従わせる強い支配力を持っていることを認識しなければならないと思います。意志をもって合唱をやっているつもりの人でさえ、合唱の支配力を内面化しているだけである可能性が考えられます。
合唱の支配力に従えば合唱はできるでしょうが、あくまでそれは人間の意志力による音楽ではなく合唱の支配力による合唱でしょう。その合唱そのものの支配力を振り切った先で合唱をするためには、逆説的ですが、その気になればば歌い手一人一人がその独唱によって合唱を瓦解させることができるような、一触即発・崩壊寸前の状態でギリギリ維持される均衡によって合唱を作れるようでなければならないのかもしれません。この時に初めて、人間の意志力は合唱の構造機能の支配力を凌駕し、保つも壊すも自由自在な状態の音楽秩序を形成することができると思います。
独唱に取り組むことが、技術面において個人の力量に資することは間違いないでしょう。しかしそれを超えて、独唱に取り組むことは、人間の自由意志力を取り戻し、合唱の支配力を超克した意志力による能動的な合唱を実現する方法でもあると考えられるのであります。
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