日頃から僕の自主企画のコンサートに足を運んでくださっている皆様はご存じの通り、コンサートのテーマを設定してからそれに見合う選曲をしてプログラム構成や解説を組んでいます。
作品の一つ一つを弾いて聴かせるというよりは、コンサート全体を通して聴くことによって考えたり感じたりできることがあるであろう…という理念の元にこの方式を採っています。まあ、もっと言えば「その時にたまたま弾ける曲を並べただけではないのか」と思われることが嫌だという理由などもあったりするのですが。
したがって選曲の際には、
・企画段階でまだ弾けないけれどもテーマから考えるとプログラムには入っていてほしい曲
・企画段階で既に弾けるけれどもテーマから考えるとプログラムに入れるには相応しくない曲
…という考えがはたらくことは常にあります。
たとえその時に練習が上手く行っていて、どんなにシェーンベルクやバルトークなどを弾きたかったとしても、それを弾く機会が「今じゃない」という判断はしているのです。以前に「今じゃない」と判断した曲が後で「弾くなら今だ!」となることは必ずあると経験上思っているので、「今じゃない」という判断をすることに抵抗はありません。
5/25に『象徴と時間 近代フランス音楽の開拓者たち』と銘打ったコンサートを開催することは既に告知しましたが、僕が主催ではない企画にも現在いくつか関わっているところです。
その中で、自主企画の類いを開催した経験の無いところが一つありまして、とりあえず「自分の先生から課題として出されたのでやる曲」が1曲決まっており、そこにどうにか合いそうな曲を探してプログラムを組もう…というところで話が詰まっています。
無秩序に「やりたい曲を並べればいいじゃん」とならなかったことは良かったのですが、まだ決まっていないコンサートタイトルを考えようという段階で、「プログラムのテーマをコンサートのタイトルにするのって重くない?」という意見が飛び出したのでした。
榎本はそれを聞いて数秒フリーズするわけです。上記の意見について僕以外から反論が出る様子もありません。演奏家とは限らないものの、一応はその場の全員が何らかの形で音楽を生業としているメンバーです。
いやいや待ってくれ、合いそうな曲を探す意思はあるのだから、やはり曲ごとの間に何らかの繋がりは見出だされるものだろう、それが後付けなりにもテーマに据えられるものになるのではないのか!?とその場で主張して、結局コンサートタイトルはまだ決めないことになったのですが、榎本の内心はこの企画をさておいて別のことで穏やかでないものでした。
こちとら普段から一々コンサートのテーマを設定して選曲をして解説を考えて、そこに相応しいと思われる、あわよくば観賞のヒントにさえなってくれるであろう言葉を探してタイトルを掲げているわけです。このことを「重くない?」と思われているかもしれないという可能性は地味にショックなものでありました。
僕はコンサートホールに行く機会とほぼ同程度には美術館や博物館に足を運びます。企画展には必ずテーマに辿り着くようなタイトルが付いているものですし、コンサートのタイトルも同じようなものであると僕は考えています。どうしてもクラシック音楽ですと単純に「○○ピアノリサイタル」とか「✕✕交響楽団定期演奏会」などという"誰が演奏するか"程度しか言っていないようなタイトルが当然のものとして浸透しているという事情もあろうとは思われますが、個人的にはむしろそちらの方に「このプラグラム何がしたいの?」と感じることがしばしばあるくらいです。常設展みたいな選曲しかしていない状況もあるのでしょうけれども。
逆に、昨年12月に大阪に行って僕の生徒さんを含む複数のピアニストの皆様と交流した際には「最初にテーマを設定して曲を探してきてコンサートを作る」という試みを徹底している様子を目の当たりにして大きな期待をもったものです。「一曲一曲からだけではなく、コンサート全体を通して感じられるものがある」という信念をもっていることもわかりました。
僕のコンサートに来てくださる皆様は恐らく「テーマに基づいたプログラムをもつコンサート」を面白がって来てくださっているであろうことを感じつつも、このやり方が「重い」とか「深刻である」と受け止められている可能性があることを知ってショックを受けたという報告だけがこの記事の要旨です。僕のやりたいコンサートの方向が変わるわけではないので、いっそ激重深刻ピアノ弾きという触れ込みでやっていく方が良いのだろうかということを一瞬冗談で考えましたね。
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