この話の発端は "演奏は上手くないが教えるのは上手い音楽家" と "演奏は上手いが教えるのは上手くない音楽家" のどちらに師事したいか、というものだったように思います。そんな極端な二択で話をせんでも…というのが率直な感想であるわけですが、周囲の音楽家たちがそれぞれに自身の考えを述べていますので、僕も一応は考えを書いておこうと思う次第です。
なお、観測範囲内では、前者が良い / 後者が良い という意見は両方とも存在しているようです。
「前者が良い」派の意見は、自身の演奏技術は最低限持ってくれていれば良いので、これまでに研究されてきた音楽教育法を勉強した人であってほしい、というものでした。具体的にはコダーイ、オルフ、ダルクローズを学んでいること。確かに演奏の腕前自体は指導法を知っているかどうかには関係が無く、指導法を身に付けるにはそれに応じた研究が必要になります。
一方で「後者が良い」派は、主に演奏業を主としている音楽家たちが多いように感じました。こちらの意見は「目の前に良い音楽があるなら習うまでもなく盗めばいい」というものです。確かにこのことは理解できないわけではなく、旧来からの徒弟制度のような師事形態に馴染んでいる人たちにとってはほぼ常識的な感覚になっているかもしれません。要求はハードですが、演奏家などはこの姿勢を経験してきていますので。
ただ、これらに関しては両方求めてはいけないという話ではないでしょう。指導法を研究している上に自身が演奏もしている、などという音楽家は数多く存在します。件の極端な二択を出さなくとも、現実はそこまで極端ではないはずです。指導が上手いということは自分自身の音楽についても上手くいかない要因を観察できるということであったり、演奏を深められるということはそれなりの音楽経験も積みながら新たな知見を得ることに労力を惜しまないということだったりもするでしょう。
今でこそピアノのみならずソルフェージュや音楽理論のレッスンも行ってはいるものの、実のところ僕自身は自分のことをピアノ弾きだと一応認識しているのです。コダーイ曰く『音楽を自分の主科とみない者は良い音楽家にはなれない。楽器は第一の副科にすぎない』という言葉は承知の上で、恐らく自分の持てる音楽を最も放出・表現できるやり方は、やはりピアノであると思うのです。第一の副科を軽視はできないと考えるのです。
もちろん他人を指導するにあたって、ソルフェージュも音楽理論も音楽史も勉強し直しましたし、ものによっては勉強しているところです。それらはピアノの演奏経験からばかり得られたものというわけではありません。しかし、その音楽がピアノや合唱などの演奏行為によって、より具体的に体感できたということもまた事実であるわけです。しかもそれは、座学で知ったことよりも遥かに進んだものであったりもします。体系的に指導されるよりも前に未知の音楽や事象に遭遇するという可能性が、演奏活動の中には転がっているものです。もしも僕がピアノを弾いていなかったら、ラフマニノフやバルトークやシェーンベルクやサティの音楽を体感するのはもっと先の話になったかもしれませんし、ソルフェージュや音楽理論の中で彼らの音楽を引き合いに出してリアルの体験を話すことも出来ないかもしれません。
指導法を研究していることと演奏経験を積んでいることは、両方とも求めてしまって良いと思います。指導法は自身の経験のみに偏らないようにしつつ、一方で演奏を行う自身のリアルの体感を得ようとすること。両方やるからこそ見えてくることもあるでしょうし、そこから伝えられることも多くなるかもしれません。
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