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  • 執筆者の写真Satoshi Enomoto

【レッスン・雑記】体系的な指導方法:音楽は天才のためだけのものではない


 最近あまり話題にしていなかったのですが、僕が音楽を始めたのは「他の人より音楽ができなかったから」という理由からです。周りの人たちと同じメロディを歌ったり、同じリズムで踊ったりができない子供だったのです。少しでもその改善になれば…とリトミックとピアノを始めたのでした。まあそれで直ちに改善したわけではなく、それなりに時間はかかったのですけれども。


 そもそも、元々から色々なことにおいて出来の悪い人間です。運動神経は未だに悪いですし、勉強にも人一倍時間がかかります。実は認識能力にもやや難がありまして、相手の言った指示語を理解するのに時間がかかったり、具体的な観点を示されずに「どう思う?」とだけ問われるとパニックになった挙げ句に変な視点で喋り出したりします。


 たまにそれなりに結果が出ると何故か妬まれるということも中学校くらいまではあったのですが、なんのことはない、他の人が遊んでいた時にこちらが一人で勉強していただけです。


 僕は全然優秀な人間ではなく、むしろどちらかと言えば遅れをとる側の人間です。なので時々存在する「元々才能のある人間」というものの感覚がよくわからないでいることは否定できません。もちろんたまに槍玉にあがる「習っていない解き方をするのはやめましょう」のような指導は言語道断であると思いますが、じっくりと順を追って勉強できる丁寧な体系は、僕のような人間にとっては非常にありがたいものだと考えています。


 

 音楽に限らず、アート全般やスポーツにおいてもその節が見られるように感じますが、元々早いうちから持っている才能や能力が、体系化された習得段階をあっさりと飛び越えていくことは珍しいことではありません。そして、そのような人たちがレジェンドとして歴史に名を残し、スポットを当てられがちです。


 そのこと自体はまだ構わないのですが、そのような天才たちを基準に考えることによって苦しい思いをするのは、圧倒的多数の天才ではない人たち、さらには僕のような遅れのある人たちです。


 僕の場合は、プロの音楽家ばかりではなく、アマチュアとして音楽をやっている個人や団体(特にアマチュア合唱団)と多く接する機会があるから感じることでもあるでしょうが、彼らの音楽の能力差はプロの音楽家が想像しているよりも広い範囲に及びます。合唱団に所属していると言っても、ピアノで音を弾いてもらったり音取り音源があったりしなければ一人では予習すらできない(つまり楽譜から音楽を想像するほどまではできない)という人だっています。


 特に音楽の専門教育を受けたわけでも、音楽教室に通っていたわけでもないけれど、そろそろ余暇だけでも合唱くらい始めてみたい…という人がいたとして、どうすればその人が自分のペースで音楽に取り組めるかを考えます。それを実現するために必要なのは、一見逆説的ではありますが、音楽に取り組むための基礎的な能力や感覚を身に付けることであります。それらを体得できるまでは、どうしても強いられるように音楽に取り組むことになってしまうのです。音取り音源の奴隷になることが典型的な例でしょう。


 無論、音楽教育は究極的にはオーダーメイドでなければなりません。ただ、それらオーダーメイドの中においても、音楽が音同士の有機的な連関であるという認識は共通しているでしょう。その認識を捉える能力から、ようやくオーダーメイドを始められるのです。


 その認識をもれなく共通して体得し、普遍的な根幹に据えるために、どうにか効果・効率を望むこともできる体系的な指導方法を確立できないかと、1000年前のグイードに始まって研究家たちが苦心してきました。今に始まった話ではないどころか、歴史上に名を残す多くの作曲家でさえ、音楽の基礎的な能力の重要性に言及しているのであります。


 

 音楽の習得におきましては、技は習うより盗むものであるという姿勢は重要なものであります。誰も彼もが企業秘密を教えてくれるはずはないですし、「どうやったらあの音楽が自分にもできるだろう?」と考えて工夫することが力になるからです。ところが、そのためには盗むための能力が必要になるのです。そして、それは基礎力があるからこそ可能になることでもあります。


 盗むための基礎力を与えようとせずに「音楽は盗むものだ」と宣告するのは、指導放棄のようなものです。その方針を取ってしまえば、育つのは元々から運良く能力を持っている人だけになるでしょう。才能のある人間だけが育てば良いという発想も存在することは知っていますが、では才能が無い人間は音楽できないでいろとでも言うのでしょうか。それはあまりに残酷です。楽譜も読めないしハモり方もわからない、でも合唱がやりたい!…という人がいたならば、やめておけと言うのではなく、導き方を考えたいと僕は思います。


 また、音楽に限らず、文化というものが繋がれてきたのは一握りの天才だけによってではなかったはずです。どんなにモーツァルトやベートーヴェンが天才であろうが、彼らの名を不滅にしたのは彼らの音楽を愛好した古今東西の名も無き人々であります。その音楽の魅力を受容する力を持たなければ、その音楽の魅力を受容することはできないのです。


 自分が練りに練って出した音楽が聴き手にあまりよく受け止められないことを「聴く耳が無い」などと罵倒するのは簡単なことです。そのような批難をする前に、聴き手も含むできるだけ多くの人々に、音楽を捉える力、音楽における基礎的な力を与えることも音楽家の役割ではないかと考えます。


 音楽の専門家と愛好家では、確かに目指すべき到達点は異なるでしょう。最も高いところへ辿り着けるのは、本当に一握りでしょうし、一握りで良いのだと思います。それでも、専門家も愛好家も音楽は同じ地点からスタートするのです。そのスタートを切る方法を確立するために、歴史上の教育者たちは知恵を出してきたのでしょう。


 ライトな愛好家でも、天才ではない人でも、音楽に向き合うことができるように導くこと。音楽における基礎力を習得するための体系的な学習方法・指導方法は、そのためにこそ編み出され、まとめられたのであります。

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