top of page

【雑記】作品にリトライすること

執筆者の写真: Satoshi EnomotoSatoshi Enomoto

 演奏をやっていくというと、なんとなく取り組む作品の順序が決まっていたり、そうでなくとも次から次へと新しい曲に取り組むことになる印象はあると思います。この曲が終わったら次の曲、それも一段階上の(※何が?)曲、という風に取り組んでいくわけですね。


 そしてこれが音大などにもなると、上級生なのだから下級生よりも断然立派な大規模な作品を弾けねばならないという意識や雰囲気も出てきたりします。


 僕もそれに従いまして、明らかに背伸びしたような曲をいくつか弾きました。ベートーヴェンの中期ソナタをろくに弾かずにいきなり後期に挑戦するということもやったわけです。案の定、納得のいく演奏ができたとは到底言い難いものになりましたが…


 

 さて、どうしてもこれらの取り組みは一本道のようになりがちです。それはつまり、既に一度演奏した曲には滅多なことでは戻ってこないということです。まあ確かに昔やった曲を掘り起こしているよりは、新しい曲に取り組んだ方がレパートリーも増えるだろうというもので、時間を注ぎ込むならそちらに…と考える人が多いのは不思議ではなく、悪いというわけでもありません。


 ところで、色々な曲に挑戦した中で「この曲は本当にこれ以上無いくらいに良い演奏ができた」ということが一度でもあったかと言えば、少なくとも個人的にはそんなことはありませんでした。どんなに徹底的に音楽を考えて練習しても、毎度大なり小なり何かしらの課題が残ってしまうものです。それがありながらも次の曲に注力しなければならないという現実は、どこか心に引っ掛かりを残すものです。


 そんな引っ掛かりが、昔演奏した曲の掘り起こしに自らを駆り立てるのであります。それは、叶えられなかった憧れを今度こそ叶えるための欲求と言えるかもしれません。


 

 昔納得のできるような演奏ができなかった作品にリトライすることは、なにも恥ずかしいこととは限らないと考えます。


 "限らない" という言葉を使ったのは、ネガティヴな方向に行く可能性も確かにあることを書いておきたいからです。昔演奏した曲は、当時の癖までセットで掘り起こしてしまう危険性を孕みます。そうなってしまうと、折角のリトライが昔のリプレイにしかならなくなってしまうのです。


 そうではなく、リトライだからこその深化を見出だせる演奏にしなければならないのです。むしろハードルが上がりましたね。初めて演奏した時からリトライするまでの間には、他の音楽などに触れて見識を広め、新たな経験とアイデアを得ているはずです。それらを活かして、少しでも深化した音楽を実現できたならば、もうその時点で及第点なのかもしれません。


 声楽家の友人のお師匠様曰く、「 (《フィガロの結婚》の) スザンナと伯爵夫人をそれぞれ10回やってようやく見えてきたものがある」ということさえあるようです。僕には10回も舞台に乗せた曲は1曲すらないかもしれません。おそらく、定期的に寝かせては掘り出すことを繰り返しながら音楽が磨かれていく、という面はあるのでしょう。


 このことをある程度意識的にやってみても良いのかもしれません。もちろんその時々のベストは尽くすべきなのですが、初めて演奏する時だけで完成を求める必要は無いのでしょう。反省点を残しながらも、一旦寝かせてしまうくらいで構わないのです。他の色々な音楽を体験して、思い出した頃に戻ってくれば、何か新しい発見ができることでしょう。


 歳を重ねると、味覚の嗜好にも変化が起きるものだと思います。子供の頃は美味しいと感じないどころか不味いとさえ思ったような食べ物が、今はむしろ美味しく感じられる…などという事例は珍しくないでしょう。美味しく感じられるようになった時こそがリトライする時、という考えもアリではないでしょうか。


 

 一度の挑戦でできただのできなかっただのを気にしすぎる必要は無いと考えます。自分の音楽がより深まって、その美味しさがよりわかるようになったら、ようやくその音楽の魅力を聴き手に届けられる準備が整うのかもしれません。


 人生は短いかもしれませんし、どこまで生きられるかもわかりません。ただ、息を長く、目線を遠く考えておくことは、音楽と付き合っていくのに良い効果をもたらすかもしれません。

 
 
 

留言


bottom of page