演奏活動をするにあたっては、作品の面白さ、演奏の面白さ、そして演奏会構成の面白さといったものは常に求めているつもりであります。それらに触れることによって感じられる世界があると信じていますし、その世界を面白がってほしいとは思っています。
面白がってほしいということを常に意識しているのは確かです。そしてここからが本題なのですが、その「面白がってほしい」は「笑ってほしい」「ウケてほしい」とは自分の中では区別されているものです。
ウケ狙いを全くしたことがないわけではありません。しかし、それは演奏の中ではなく、大抵は文章やら画像やらといった形態でやることが殆どであり、しかもウケることだけを目的としてやっているものです。やはりそちらは「新しい世界を面白がってほしい」とはまた別考えて用意しています。
実はそもそも地が笑いを提供するような性分ではないことが大きな要因です。個人的な感覚では、面白がってもらえそうなものを用意するよりも、ウケてもらえそうなものを用意する方がより大きな疲労を感じるのですよね。TwitterやYouTubeでエンタメに全振りした作品や演奏がバズっているのを見ると、凄いなぁという感想は一応抱くものの、自分もやってみようなどという気は殆ど起きないのです。
SNSや動画サイトの普及もあり、さらには纏まった余暇時間の減少もあり、「何だこれ…うん…何だこれ…?」などと独り言を呟きながらリピートしては少しずつ未知のものを咀嚼するような楽しみ方よりは、サクッと笑える楽しみ方が人気を得ているのは納得のいくところです。粗い技巧の音量偏重の弾き方などはその極端な結果かもしれないと推察します。
ただ、じっくりと面白がるよりはサクッと笑えるものの方が多くの人々の心にリーチしていることは現実として留意せねばなりません。それを踏まえた上で、迎合した顔で取り入った後にこちら側に誘導するか、あるいは堅気を極めるかを選べばよいでしょう。ちなみに自分としては前者を試みているつもりです。
そのような性分と考え方ですので、自分が曲を書いたり演奏をしたりという時に、聴き手が面白がってくれるかどうかは優先的に考えるものの、聴き手がウケてくれるかどうかの順位は低いと言って間違いないです。そして、それは結果的に聴き手がウケてくれることと矛盾しません。
案外、結構冷めたことを考えていたりするものです。ここの音楽をどう工夫したら、どんな情感が生まれるだろう、どんな現象が起きるだろう…などということを試行錯誤していることが殆どなので、おそらく一般の方々がイメージしているよりも演技して作っているはずです。
手前味噌で恐縮ですが、僕が担当し、先の3月に上演し、現在も配信中のシェイクスピア遊び語り『テンペスト:大嵐』の音楽の中には、酔っ払いたちが歌うしょうもない歌があります。コミカルなテキストですから、音楽もコミカルなものにしましたし、どのように歌えばコミカルに聴こえるか・見えるかを試行錯誤しました。その過程でウケを狙いに行こうという心持ちはほぼ無く、直前まで酔っ払っている演技をしていた人間が「これもちょっと違うなぁ…」などと頭を抱えたりするのです。コミカルな演技は意外なほどストイックに生み出されるものだったりします。
故意に笑いを取りに行こうとすると、演じる側にも綻びが出るものなのかもしれません。面白がってもらおうと工夫した結果導き出される笑いの方が、双方共に快いかもしれませんよ。
「笑いの一つも提供せずに金を取るのか」という考え方はパッと聞いただけでもちょっとなぁと思うところですが、その一方でその考え方が広がってきていることは実は日常でも心当たりがあります。映えるもの・バズるもの・インパクトのあるものが「ウケる」という意味で価値を持ち始めているようには犇々と感じています。
この現実には個人的には苦い思いを抱くのですが、現実がそちらに向かっているのはどうにもできません。粛々と、ウケなど狙いに行かなくても面白いと思わせることができるように、試行錯誤を繰り返し、良いものを届けられるように努めるしかないのでしょう。
漱石の『夢十夜』の第6夜には、仏師の運慶が登場します。仏像を彫る時には、眉や鼻を鑿で作るのではなく、木の中に埋まっている眉や鼻を、鑿と槌の力で掘り出すだけである…という表現が出てくるのですが、音楽に関してはこの感覚はかなりちょうど良いものではないかと思ったりします。もちろん、木の中にどんな仏像が見えているかは人それぞれという面はあるのですが、つまりは最も理想のふさわしい形を掘り出そうとするだけなのだと思います。インパクトを求めてあり得もしない眉や鼻を作ってしまうよりは美しいであろうと信じております。
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