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  • 執筆者の写真Satoshi Enomoto

【名曲紹介】瀧廉太郎の2つのピアノ曲

更新日:2022年2月9日

 瀧廉太郎(1879~1903)の名前は、特に音楽を趣味としているわけでない人でさえも聞いたことがあるでしょう。というか、中学校の音楽で《荒城の月》か《花》のどちらかを歌ったであろう人が殆どであると思いますし、または《箱根八里》を聴く機会もあったかもしれません。ただ、実際に一般に最も知られている彼の曲は「もういくつ寝ると~♪」の《お正月》であろうという事実は意外と見落とされがちでしょうけれども。




 瀧廉太郎はご存じの通り、非常に若くして病気で亡くなりました。その生涯、なんと23年と10ヶ月。西洋音楽史上で短命として例に挙げられるモーツァルトやシューベルトでさえも30代まで生きていますし、26歳で没したペルゴレージよりも若いです。


 したがって廉太郎の作曲活動期間も短く、たったの6年でしたから、実は作品もそこまで多いわけではないのです。それこそ歌曲や合唱曲に関しては皆様ご存じの《お正月》、《荒城の月》と《箱根八里》、そして《花》を含む《組歌『四季』》(『花』『納涼』『月』『雪』)に加え、《四季の瀧》、《豊太閤》、《別れの歌》、《水のゆくえ》、《荒磯》で、存在感のある作品はほぼ一通りです。一晩のコンサートで全部演奏してもまだ時間が余りそうなほどです。ちなみに《別れの歌》以降が留学から帰国後の作品であり、短かった留学でありながらも音楽的な深まりがあったことを見て取ることができます。


 

 廉太郎の創作の主軸が歌曲や合唱曲にあったことは間違いないでしょう。それは唱歌による音楽教育を進める当時の日本において需要があったから…という見方もできるかもしれませんが、それはさておき。


 ここからが今回の本題です。恐らく創作の主軸ではなかったかもしれないものの、廉太郎はピアノ曲をたった2曲だけ遺しています。しかしこの2曲がまたどちらも不思議に惹かれる存在感をもつ作品なのであります。作曲順に見ていきましょう。


《メヌエット》


 1900年10月1日に完成。ロ短調、3/4拍子。演奏時間は2分とかからない短い曲でありながら、トリオを持つ複合三部形式(A-B-A→C-D-C→A-B-A)で書かれており、様々な旋律が登場します。なお、日本で最初に書かれたピアノ独奏曲であるとされます。



 この作品のポイントは、何と言ってもメヌエットというクラシックの形式を踏襲しながらも和風な旋律を組み込んでいることでしょう。それが表れているのがAの部分とDの部分です。



 ラ-ティ-ド-ミ-ファというヨナ抜き短音階を基本とした旋律となっていることがわかります。その一方でBの部分は一般的な短調、Cの部分は一般的な長調によっているために、和と洋が混在したような音楽となっているのです。


 また、Aの旋律が《荒城の月》のそれと非常に似ていることに気付く人は少なくないと思います。実は《荒城の月》の原曲はロ短調であり、調までも同じであるという事実があります。それが無かったとしても、試しに階名唱してみると「ミ-ラ-ティ-ド-ティ-ラ」の一致を実感することができるでしょう。



 作曲順としては、《メヌエット》の方が少しだけ早いと考えられますが、もしかしたら《メヌエット》で書いた旋律を気に入って《荒城の月》にアレンジしたという可能性も考えられるわけで、とても妄想が捗りますね。


 ちなみに余談なのですが、僕の母校である神奈川県立横浜平沼高校の校歌は廉太郎の東京音楽学校時代の師匠である幸田延(1870~1946)が1916年に作曲したもの(当時は神奈川県高等女学校)ですが、その歌い出しがまた「ミ-ミ-ラ-ティ-ド-ティ-ラ」というものでして、これが廉太郎へのオマージュであると考えられていたりします。




《憾》


 1903年2月14日に完成。ニ短調、6/8拍子。演奏時間は2分ほど、コーダ付きの三部形式で書かれています。廉太郎の絶筆となった作品であり、この4ヶ月半後の6月29日に早すぎる死が待っていました。


 タイトルは『うらみ』と読みます。亡霊が化けて出たりするような怨恨の『怨み』『恨み』ではなく、遺憾の『憾み』。作曲時にはもう自分の死を悟っていたでしょう。



 《メヌエット》と比べると、留学を経て音楽がダイナミックに、奏法がピアニスティックになった形跡を見ることができます。和声にも幅が増え、緊張感の高い音も用いるようになりました。特に廉太郎にしては珍しく暴力的とも言えそうなコーダは、病気という理不尽へのやり場の無い怒りが表れているようにも見えます。


 確かに病気は悪化していましたが、この《憾》が書かれてからその早すぎる死までは4ヶ月。もしかしたら《憾》が絶筆というわけではなく、他にも小品や旋律だけでも書いてはいなかったのだろうか?という疑問も湧くところですが、肺病でしたから最期の方の持ち物が作品もろとも破棄されたとも言われており、結局真相は闇の中である上に作品も出てこないというのが実状でしょう。


 

 廉太郎が生きた時代は、明治日本がどうにかしてクラシック音楽を採り入れていこうと試行錯誤した時代です。教育の方面では、音楽学校を作ったり、階名唱を導入したり、音楽家を留学させたり…ということを行ったわけですが、創作の方面でも力を尽くした人々が数多くいたのです。それこそ恐らく、大河ドラマのネタになるくらいには。その中でも、ピアノ作品の最初の最初に位置するものこそが、廉太郎の2つのピアノ作品であるというわけです。さほど演奏難度の高い曲ではありませんから、これらを起点として、日本ピアノ音楽の開拓を始められるかもしれませんよ。

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