top of page

【感想】東京都交響楽団 第1020回定期演奏会Aシリーズ:響きを全身で体感する

  • 執筆者の写真: Satoshi Enomoto
    Satoshi Enomoto
  • 11 分前
  • 読了時間: 6分

下野竜也 指揮

東京都交響楽団

水谷晃 コンサートマスター

東京混声合唱団

平川範幸 合唱指揮


曲目

ミュライユ《ゴンドワナ》

夏田昌和《重力波》

黛敏郎《涅槃交響曲》




 久々に東京都交響楽団の定期演奏会を聴きに行きました。というのも、黛敏郎の《涅槃交響曲》を生で聴きたかったというのが最たる理由です。数年前にも演奏されていたはずですが、その時は行けませんでしたので、自分の中ではようやく待ちに待った実演を聴く機会でした。


 《涅槃交響曲》との出会いは中学一年生の時でした。尾高賞受賞作品集のCDアルバムシリーズを持っているのですが、そのVol.1の最初に収録されているのです。当時はどういうわけか邦人作品の楽譜や音源に触れる機会が多く、その中でも《涅槃交響曲》は「梵鐘の響きや天台声明を織り混ぜた交響曲」として強い衝撃を残していました。


 今回のコンサートは平日水曜日の夜。榎本は普段定期的にレッスン(する方)が入る日時なのですが、生徒さんとの日程調整を行ってどうにか空けたのでした。もはや生徒さんも来ていました。


 僕や生徒さんは《涅槃交響曲》を目当てにチケットを取りましたが、当日の会場に着いてみると知り合いの作曲家複数人に会いまして、彼らは夏田昌和さんの《重力波》も目当てに来ていたようでした。恥ずかしながら夏田昌和先生の曲を僕は知らず、今回のプログラムに沿う類いの作品なのだろうとだけ想像して「初めて聴く知らない曲」として興味だけ持って来たのでした。


 入場口のポスターの写真も撮りました。なんとこの尖ったプログラムで完売御礼です。それこそ首都圏外在住の音楽家、音楽愛好家の知り合いたちが揃ってこのコンサートに駆け付けたことは前々から観測していましたから、むしろ満席が実現されたことは誇らしいくらいでした。別に関係者でもないのにね。



 開演前には、《重力波》と《涅槃交響曲》では特定の楽器やバンダが客席中央通路の左右端で演奏することと、《重力波》ではバス・ドラムが強打されるので近くの席の人は覚悟しておいてほしいという旨がアナウンスされ、客席からは笑いが起こっていました。そのような事前報告は聞いたことがありませんでしたが、そういえばYouTubeで「ストラヴィンスキーの《火の鳥》のティンパニの一撃に驚いて飛び起きて悲鳴を上げた」という動画を観たことがあったのを思い出しました。居眠りして聴覚が油断していたところに轟音が届いたらそれはまあ驚くでしょう。



 一曲目はミュライユ《ゴンドワナ》。この曲は知ってはいたものの、生演奏で聴くのは初めてだったはずです。スペクトル楽派の代表作のような作品ですから、今回のプログラムを始めるための曲としては適しているでしょう。チラシにも書かれた売り文句「なんなのだ、この響きは!」を味わえるものであると思います。この曲の冒頭を聴いた段階で「なるほど、今夜はオーケストラは人力シンセサイザーとして振る舞うのね」と心の準備も整うものです。ミュライユの《ゴンドワナ》という単体の作品としてというよりは、コンサートの序曲枠として聴こえたと思います。


 準備にしばし時間をおきつつ二曲目の夏田昌和《重力波》。開演前に会った作曲家の友人からは「面白い曲ですよ」と言われていたので楽しみにしていました。舞台上と客席中央通路両端のバス・ドラムのロールから曲は始まります。この音を聴く感覚が「バス・ドラムの音を聴いている」というよりも「起こって沸き上がってやってきた振動を身体が知覚している」というものとして感じられたことがまず印象的でした。この時点から既に鑑賞の感覚が普段の音楽と異なっていたように思えたからです。鼓膜が確かに震えると同時に、床や座席を伝って身体の芯をも震わせているようでした。


 そこから3台のバス・ドラムが呼応しながら音楽を拡大していくのを、こちらも感覚を拡大させながら捉えていきました。そして遂にオーケストラが一気に鳴り出した瞬間に感覚が爆発するような錯覚を味わいました。先ほど「音楽に驚いて悲鳴を上げる」という話を冗談交じりに書きましたが、居眠りなどしていなかった僕はそれと殆ど同じ状況を体験したのです。瞬時に声を押し殺そうとしなかったら確実に悲鳴が漏れていたはずです。「意識的に口を開けていたら劇物を全力で投入された」みたいな感覚でした(そんな経験は現実には無いけれど)。


 予め楽曲解説を読んでいるので「楽曲は簡潔な5つのセクションより成る。~」などということはざっくり理解していたわけですが、上記の衝撃を喰らってしまったのでもう楽曲構成がどうたらという話どころではありませんでした。次々と音楽が飛んで降ってきては身体に雪崩れ込んで一頻り暴れて去っていくかのような、音楽鑑賞の範囲を超えた体験・体感として味わわれました。


 《重力波》が作曲されたのは2004年とのことで、僕は夏田昌和さんについてもこの曲についても存在を見落としていたことになります。こんなにヤバい曲を知らなかったのは不覚でした…


 コンサート後半は《涅槃交響曲》。客席中央通路の上手側に高音域バンダ、下手側に低音域バンダが配置されます。僕が座ったのは上手側、高音域バンダから少し離れた前方だったので、どうしても高音域バンダの音が大きめに届くものの、気になるほどではありませんでした。どうやらバンダの前方至近距離の座席は音響バランスが酷かったらしいという話も聞きますので、そのような難しさもあるのだなと後から思いました。


 この《涅槃交響曲》は「梵鐘の響きを音響学的に分析してオーケストラで再現する」という建前からスペクトル楽派の先駆のように見なされて来ましたが、実際には音響を平均律に近似している上、十二音を網羅するために恣意的に和音が操作されているので、これはむしろ梵鐘のモデルに十二音技法を落とし込んでセクションを鳴らし交わす人力十二音ミュージック・コンクレートという位置付けになるのでしょう。


 この曲の演奏を僕はCD音源でしか聴いたことがありませんでした。それを聴いて、3つのセクションから鳴る和音が重なって複雑な和音が出来上がるのだな…とばかり思っていたのです。


 しかしどうしたことでしょう、実際に客席に座ってみると、三方向からやってくる和音はどれも明瞭にそれとして聴き取れるではありませんか。演奏のやり方にも起因するのかもしれませんが、これまでに聴いたCD音源よりも音響が断然すっきりと整理されている印象を受けたのでした。そして鐘を模した和音がそれぞれに鳴るミュージック・コンクレートのような要素がより際立って体感されました。《涅槃交響曲》はCD音源や動画で聴くよりも生演奏で聴いた方がむしろその実態を捉えやすいのではないかとさえ考えることになりました。



 プログラムから期待していたように、今回のコンサートは「響き」を全身で浴びて体感するコンサートであったと思います。特に《重力波》と《涅槃交響曲》については生の演奏の場にいなければ味わえない感覚があるということを実感させるものだったでしょう。


 音楽が耳に入るならば聴く手段はどうだっていいじゃないか…という考えもあるかもしれません。しかし此度のコンサートは、音楽が耳から入って聴こえるだけのものではないこと…翻って言えば、人間は音楽を耳だけではない感覚を以て受け止めているであろうことを省みる切っ掛けにもなったと思います。


 音楽は体感するものであるということを自分の音楽活動でも留意していきたいと思いました。

Comentários


bottom of page