暗譜が演奏家たちにとっての悩みの種であるということは誰もが認めることだと思う。楽譜を見られないことによる不安が起きる一方で、暗譜をすることで楽譜にしがみつくことなく演奏できるというメリットもある。僕も暗譜には非常に苦労し、暗譜が飛ぶ不安にはいつも怯えている。僕に関して言えば、そもそも「覚える」こと自体が音楽に限らず苦手で、法律の条文やら古文の文法やらを殆ど覚えられないまま、それらが苦手教科になった。一方で数学や物理の公式を覚えることはできたのだが…
話を戻そう。“暗譜”とはどのようにすればよいのか。
まず思い浮かぶのは視覚で楽譜をスキャンするように覚えるやり方である。ルービンシュタインはこれが完璧にできたらしいけれども、これはほぼ特殊能力の域だろう。僕の友人にもこのやり方で暗譜をする演奏家が何人かいるが、「写真みたいに覚えられるんだけどたまに空欄がある」などと言ったりしている。本番で空欄が出てくるのはさすがに怖いなぁ…
同じく、視覚で演奏時の指などの動作を映像として覚えるやり方。しかし、これは演奏動作が目に見える楽器でのみ有効である。ピアノならできるが、歌ではできない。演奏動作が自分の目に見えないから。それに、動作にばかりに集中してしまって自分の出している音が意識から外れ、音楽が蔑ろになる危険性が無いとも言えない。
次に、聴覚で音響として記憶するやり方。記憶の中の音楽に従うように演奏の動作を行うのである。が、これも音楽だけ覚えていて奏法を忘れるという危険性がある。僕はヴェーベルンのピアノのための《変奏曲》を弾いた時にこれが起きて“暗譜が飛んだ”。あの作品は低音域を右手で/高音域を左手で弾く場面が、音楽上の指示によって多々見られる(“多少”ではない、“多々”である)。僕は音楽の音響は覚えていたが、普通に右手で弾けばよい高音を左手で弾いて辻褄が合わなくなってしまった。音響と奏法とのリンクという面で地味に弱点がある。
そして触覚的に覚える方法。指がどの鍵盤をどのように弾いているかを指の感覚で覚えるということ。しかしこれもまた触覚的に分かりやすいものにしか適用できない上、体でやっていることなので、ふとした切っ掛けで体の感覚が変わった瞬間に崩壊する事態も考えられる。コンディションの影響を受けすぎるのである。
おそらくほとんどの人はこれらのやり方を複合的に採り入れて暗譜を試みている…つまり“音楽を覚える”ことに挑んでいると思う。したがって、“覚えられない”ことを“暗譜ができない”と言い、“演奏途中で忘れる”ことを“暗譜が飛ぶ”と表現する。
僕の提言はここからである。
“覚えられない”ならば、“覚えなくていい”方法を考えるのだ。それが「暗譜」ではなく「再作曲」である。
数学や物理の公式を覚えられない人と覚えられる人がいる。この差は何かと言うと、前者は公式をそのまま暗記しようとするのに対し、後者は公式の導き方を理解しているという点にある。つまり、前者は忘れてしまえばゲームオーバーだが、後者は忘れてもその場で組み立てることができるわけである。
これを音楽にも適用するのである。音楽を“覚えておく”のではなく“自分で組み立てる”ということ。そこでは“音楽を覚える工夫を考える”ことではなく“音楽の組み立て方を理解する”ことが方針となる。
着目する点は「音がどのように繋がって音楽を形成しているか」ということである。まず一つの音を見ただけでも、それがどのような音高・音価・音量・音色・表情を持っているかを考えることができる。そこにもう一つの音が加わると、二つの音の間に関係性が生まれる。二つの音がどのくらいの長さで、どのくらい上行または下行して、どのような表情で繋がるのか。そこにはもうリズムや音程やアーティキュレーションが生まれているのである。そしてさらにもう一つの音が加わり…それを繰り返して、ある連なりはメロディとなり、ある連なりはベースラインとなり、それらの距離が和声を生み、その音の並びの法則性が調となり、連なりの展開が形式となり、一つの音楽を形成する。音という原子が結びついて音楽という生命体になるのである。
どのように「再作曲」をするか。それは、作曲家たちが音を繋いで音楽を作ったのと同じように、自分も音を繋いで音楽を作ることなのである。もっと具体的に喩えようか。モーツァルトのソナタを再作曲するということは、モーツァルトが音を繋いでソナタという音楽を作った(作曲した)のと同じように、自分が音を繋いで、モーツァルトが書いたのと同じものを作曲するということである。つまり、既に存在する作品をもう一度作曲するのである。これはもはや「暗譜」ではない。自分の外側に在る誰かの作品を「暗譜」によって取り込むのではなく、誰かの作品を「再作曲」によって自分の内側から再び生み出すことで、楽譜を見ることなく、つまり“外見的には暗譜で”演奏することができるようになる。
とは言っても、このやり方はハードルが高いのも事実である。モーツァルトの音楽を作曲するためには、自分がモーツァルトに近付かねばならない。さすがにその域まで到達するのは至難の業ではある。が、できる限りの努力はしよう。
そこで提案が二つある。
まず、作曲を試みること。これはなにも立派な音楽作品を書かねばならないということではないし、本業作曲家レベルの作曲能力などは求めていない。作曲する時にはどのようなことを考え、どのように音を繋ぎ、どのように音楽を省みるかという感覚を知ることが、作曲を試みる目的である。とりあえず教科書的な作曲技法などは一旦気にせず、自分が「こんな音楽が良い!」と思ったものを、どんなに拙くてもいいから書いてみるのだ。そして必ずそれがどのように作られている音楽であるかを分析し、反省すること。決して書きっぱなしではいけない。自分が何をやっているか自分でわかってないなんてことは意外に多いから。
そして、音楽理論を学ぶこと。楽典に始まり、和声学、対位法、楽式論、さらには修辞学、具体的な作曲技法…等々。これは音大生ですら誤解していると思うのだが、音楽の理論を学ぶことの目的は、教科書的な知識を単純に身に付けるためではなく、それらをそのまま実際の作曲で用いるためでもなく、音楽を捉える能力を養うためなのである。「音楽理論なんか勉強したら頭でっかちな音楽しかできなくなる」などというナンセンスな主張は教科書をそのまま音楽に用いようとするから陥る発想であると言っていい。そのままでは知識としての音楽理論を経験的直感へと深化させ、実際の音楽を捉えることに使えるようにすることが重要である。
つまるところ、音楽の実体を自分なりに掴む能力を身に付けなければならないということである。究極的には、何の脈絡も無さそうな二つの音の間にすらも論理を見出すことができるようになり、その二つの音は自分の中で繋がって音楽となる。「この音楽はどうやって“音楽になった”のだろう?」ということを考えて音楽に向き合ってみよう。自分の中に湧き出る音楽を見つけることができるかもしれない。
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