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執筆者の写真Satoshi Enomoto

【雑記】“音楽的政治”と、主観で投じる一石

更新日:2020年3月23日

 Twitterで「これは聴いとけ! 個人的クラシックおすすめ100曲」みたいな企画をやっている人を数人観測したので、よし、流行に便乗して自分もやってみよう!などと意気込んでリストアップしてみましたら、ピアノソロ曲だけで150曲に達しそうです。教養として知っておくべきなどという客観的評価ではなく(音楽の好き嫌いが殆ど無い)僕の独断に基づくため、こうなるであろうことは最初から予測できていました。オタク万歳!


 タイトルを列挙するだけの記事にしても読む気が失せる代物になるのは間違い無く、こりゃあ1曲ずつ簡単な解説付きで紹介していく方がいいなと思いましたので、そのような方式にしていきます。ブログのネタが150本できたようなものだと考えて地道に書きます…!



 ところで。


 僕は、何かを演奏して聴衆に聴かせよう、という行為自体が一種の “政治” であると、即ち “何を演奏するか” “どんな演奏をするか” を考えることが “音楽的政治” というものであると考えています。それは別に政治的主張が込められた作品を演奏するという意味ではなく、例えば「リサイタルでショパンのエチュードを弾く」というだけのことが政治であるという意味です。

 雇われ仕事として曲が決められている場合はまた別のものとして考えた方がいいような気もするのですけど、演奏家が自らの意思で曲目を選べる時、演奏はその演奏家による政治でしょう。


 自らの意思で弾きたい曲…「弾きたい曲」って何でしょうね。

 何故その曲を「弾きたい」と思うのか。または別の言い方をすれば…何故その曲を「聴かせたい」と思うのか。

 根本には、その曲を…その音楽を聴衆に提示する意義を、自分自身が感じているということなのではないかと推察します。ここにおける “自分自身が感じている” ということが結構重要だと思っています。


 世間には、クラシックの “名曲” という観念が根付いてしまっている現状があります。殊に日本においては、殆どの聴衆は “「名曲」と呼ばれる曲” を聴きたがり、それを受けて演奏家たちも “「名曲」と呼ばれる曲” を演奏します。客観的評価…というか、世間的に評価されているものを評価したがる気質のようなものを感じないでもないのですが、ともかくこの循環によって、クラシックは矢鱈と歴史の長さを誇るくせに演奏されるのはほぼ限られた一部の曲だけという状態があるように思います。ベートーヴェンの32曲のピアノソナタが32曲とも全て重宝されて演奏されるかと言えば、実際にはそんなことはないのです。


 この状態を打破するためのカギが、演奏家自身が「世間が何と言おうとも、これを聴衆に問う意義がある!」と考えた音楽を演奏していくことだと思うのです。自分自身の音楽観で音楽政治を執ることです。「諸君、私はこのような音楽は美しいと思うのだが、どうかね!?」と問いかけるのです。まさか全員が全員「ショパンのエチュードこそがありとあらゆる音楽を差し置いて至上の作品である!」などと思っているわけではありますまい(ショパンエチュードを貶める意図はありません。念のため)。


 現実的にも、どうしてもただ数人の音楽家の判断だけでは取り零してしまう音楽があるのです。僕が「おすすめピアノソロ作品150選」などとやったところで、魅力的な作品を何の疑いもなく取り零してしまうことは充分にあり得るのです。

 音楽家たちがそれぞれの音楽観に基づいて「この音楽が好き!」と思う音楽に取り組むことによって、音楽の多様性が拡がる…というのももちろんですが、もう一つ、“取り零し” が少なくなるということにも繋がるのです。それによって「今まで知らなかったけれども、こんな面白い音楽があったんだ!」という発見をする人が一人でも増えたら、音楽社会は豊かになっていくのではないかと思います。


 あんまり「これがみんなの欲してる名曲だから…」「これが音楽史上で客観的に評価されている曲だから…」とかは考えすぎずに、「自分はこれを良いと思うんだが!!!」で一石を投じてみるのは大いにアリでしょう。僕はそういう音楽が聴きたいですし、音楽に関わる人たちの “好き” が世界を拡げていったら、それは素敵なことではないでしょうか。僕の知らない音楽を教えてください。

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