職業として音楽家をやっていくにあたって、必要な技術や能力は色々と挙げられるでしょう。体力ももちろんですし、知性や度胸、さらには社交性や運などといったものさえ決して無関係ではないと思います。「音楽の世界は(広義の)コネです」という言葉は実際かなり正直なものだと言ってよいかもしれません。そういえば師匠にも「性格が非社交的すぎると仕事なんて頼んでもらえないわよ!」と忠告されたことがありまして、確かにその通りになった面はかなり大きい気もしますね…
ところで、話題はそんな職業演奏家としてのスキルの中でも「練習しなくても形にできる力」というものについてです。
うむ、確かにその能力が現場で求められるということについて異論はありません。突如としてピンチヒッターがまわってくることは少なからずあります。ピアニストがドタキャンしました、本番は1週間後です、お願い助けて!みたいなヘルプに応えるようなことも何度か経験しました。それこそ僕は高校生の時にそんな依頼を受けたことがあります。
仕事で弾かねばならない曲が多い演奏家ともなると、1曲1曲についての練習時間を削らなければ首が回らないといった事態も起きてくるのでしょう。他にも、急遽オーディションの伴奏を弾いてほしいという依頼もあったりしますから、それに素早く対応できることも重要でしょう。オーディションの伴奏7曲をたった5日間で初見から本番までもっていったことは記憶に新しいです。
いずれにせよ、仕事として引き受ける曲にかかっていられる時間は基本的に非常に短いものと言ってよいかもしれません。
ただ、これらについては「練習しなくても形にできる力」というよりは「限られた練習時間の中で迅速に理想の音楽に接近できる力」と言うべきものではないかとも思うところであります。というのも、どうしても練習することは必要であるからです。こうやって読んだり弾いたりすれば良い音楽を楽に実現できるぞ、ということを考えることそれ自体が既に練習の一環であると思います。そのためには単純に目の前の音符を体の動作へ変換するだけではない、もっと込み入った観察力や試行錯誤が求められるでしょう。音楽を叶えるために練習(広義)は通るものであると考えます。
ここからが危惧していることなのですが、この「練習しなくても形にできる」ということが悪い形に実現する例があるのです。とりあえず形にはなっているけれど、こいつは絶対に練習していない・練習が不足しているという演奏は結構感じられるものです。その一種の惰性は伝わるのです。それこそ「自分はこの曲を何度も弾いているから今さら練習しなくても弾ける」みたいなものもわかります。
すぐに弾けるレパートリーを多種多様に揃えておくことは重要ですし、初見が早いことは重宝されるでしょう。それで仕事は難なく回ってしまうために、むしろ一つの音楽をじっくりと深めていく力がだんだんと衰えていくことが起きはしないでしょうか? とりあえず手元に揃えたお決まりの曲だけをレンジでチンするように蔵出ししたり、自身の初見能力にかまけて不充分な練習しかしないまま人前で演奏したりということがないでしょうか?
伴奏を引き受けて毎週末に本番がある…なんていう時期が僕にも時々ありますが、僕は初見はそこまで早くないですし、もし初見が早かったとしても練習時間(ピアノを弾かない時間を含む)を確保しようと思います。まあそのせいでお金の入らない時間がそれなりにあるという、ビジネス的には失敗しているような有り様ではあるのですが、引き受けるからには徹底して音楽を作りたいと思うからこそ、この方針は維持したいと思います。本当なら合わせさえもそのくらいに時間を取りたいくらいの心持ちなのですが、流石にそれは他人の時間なので…
学生時代にはむしろ「時間をかけてじっくりと音楽を深めるべし」というやり方で学びましたし、同時に「大学を出たらそんな暇は無い!」ということも言われていました。学生時代にそのように勉強するからこそ、どんなに多忙になっても "千切っては投げ千切っては投げ" に傾きすぎずに済む面もあるのではないかと思います。
僕自身は練習しなければ形にできない人間です。僕が初見で弾いているところを見たことがある方もいらっしゃるでしょうが、あれだって数十秒の間に「どうすれば良い音楽ができるか」「どうすればすぐに楽に弾けるか」などということを考えて "練習" しているわけです。
再度書きますが、「練習しなくても形にできる力」と呼ばれる能力が仕事現場で求められることについて異論はありません。確かにその通りであると僕も経験的に感じています。仕事では "千切っては投げ" に近いことをせざるを得ないからこそ余計に、少なくとも自分の手元だけで取り組める音楽については、どんなに時間を割いてでもどんなにお金にならなくとも、じっくりと "練習" してから皆さんに届けたいと思っています。
SNSメディアやストリートピアノなんかの影響もあるとは思うのですけれども、「すぐに何でもそれなりの形で弾けちゃう! すごい!」という価値観が伸長しているように感じる時があるのですよね。確かにそれはそれで凄いし、仕事の上でも強みであることはわかっているのですが、そこで止まっている音楽に接すると、なんとも残念な気持ちになるというのが正直な思いであることは、ここに書いておきます。
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