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【探訪記】聶耳記念広場:中国国歌の作曲家の没地、鵠沼海岸

  • 執筆者の写真: Satoshi Enomoto
    Satoshi Enomoto
  • 4 時間前
  • 読了時間: 3分

 合唱DIOの練習は藤沢市内で行っていることが多いのですが、先日は珍しく鵠沼で練習がありました(数年ぶり?)。


 鵠沼と言えばで、音楽関連で訪れておきたいところがあります。やはり数年前にも行ったのですが、その時に撮った写真はmicroSDもろとも破損してしまったので、紹介も兼ねて今回改めて訪れてみました。


 県立湘南海岸公園内にある「聶耳記念広場」です。



 聶耳(Niè Ěr, 1912-1935)は中華民国雲南省昆明県、現在の昆明市出身の作曲家です。「耳」の字があまりにも多い名前をしていますが、本名は聶守信といい、「聶耳」は周囲から呼ばれていたニックネームをそのままペンネームにしたものであるようです。


 師範学校在学中から共産主義に傾倒して学生運動に参加し、後には中国共産党に入党しましたが、中国国民党からの逮捕を避けるべく上海へ向かい、さらに親族を頼って日本へやってきました。


 聶耳はプロパガンダ映画や演劇の音楽を数多く作曲していました。そして手掛けたプロパガンダ抗日映画『風雲児女』の主題歌として書いた《義勇軍進行曲》こそが、現在の中華人民共和国の国歌となっています。


 なお、この《義勇軍進行曲》の作詞は聶耳と同様に共産党に所属していた詩人 田漢(Tián Hàn, 1898-1968)の手によりますが、文化大革命で田漢が弾圧されたために一時期はそもそも歌われなくなり、また文化大革命終結後も数年間は毛沢東や中国共産党を讃える別の歌詞で歌われたようです。田漢の書いた歌詞に戻ったのは1982年のことでした。田漢本人は文化大革命が始まってすぐに逮捕、投獄からの獄死を遂げていますので、何とも不遇なものです。


 聶耳に話を戻しますと、彼は1935年の春に日本にやってきて、《義勇軍進行曲》を書き、そのすぐ夏に鵠沼海岸で遊泳中に事故死してしまいました。23歳という若さでした。暗殺説が囁かれることもありますが、それは陰謀論にすぎないでしょう。政治情勢に翻弄され、故郷を離れざるを得なかった聶耳の心を癒したのが、藤沢鵠沼の海だったのかもしれません。


 この広場と記念碑は、藤沢市民が中心となって設置し、整備しているものです。1981年には、この聶耳の生地である昆明市と没地である藤沢市が友好都市提携を結ぶに至りました。



 特に昨今の緊迫した国際情勢や増長する排外主義を見るに、藤沢を愛した聶耳と、聶耳を敬った藤沢市民たちの絆を忘れたくないものです。抗日映画の音楽を書いていた聶耳が、むしろその足跡によって中国と日本の架け橋になったのです。


 音楽家にはソフトパワー外交を担う力もあるはずです。聶耳と藤沢市民の関係に学べることがあると思います。

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© 2018 Satoshi Enomoto

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