僕に政治はわからぬのですけれども、音楽家含め、芸術に携わる人間として、そして社会の一員としてはどうしても声を上げなければいけない状況になってきたように思うところです。
国民は国に税を納めているわけであります。これは何のためなんでしょうかね。
国民の視点で言えば、生活していく上での環境運営のための費用だと思うのですよ。政府というのはその中心でありましょう。より良い社会生活を実現していくためにどうしてもコストが発生する。「みんなの生活を良くするためだったら、じゃあみんなで少しずつでも負担しようか」という心持ちで納めていることだろうと思います。
であるからして、どうにも国民生活に反映されない運営が為された際には「話が違うじゃん」ということになるわけであります。みんなから集金したくせに「え、特定の人のために使うんです???」「え、あなた自身のために使っちゃうんです?????」ということになったら当然問題になるのです。国会で紛糾する問題は要するにこういうことでしょう(なぜか自分のお金の使い道が不透明であることを擁護する人もいることはさておき)
国という集団を成すことのメリットの一つは、一人では防げない損害をみんなでならできるだけ防げるということにありましょう。誰か一人が病気か何かで働けなくなったらみんなのが納めたお金で生活保護を受けられる。災害で一つの都市が壊滅的な被害を受けたら全国みんなで復興費用を出しあう。窮地に立たされた人たちを見殺しにしないための仕組みがあるわけです。
自分だけの力で死を生に変えてみろなどという自己責任論は動物の弱肉強食と同じようなものでありまして、獣の論理を人間社会に適用してもらっては困るのです。個人の努力の肯定否定とは程度が違う問題も存在するのです。
さて、この度の新型コロナウィルス禍は、一都市や一地方に止まらない全国規模の、そして目に見えぬ災害とも言えるでしょう。
人の密集を避けるために、公演という形態をとるものはほぼ全て自粛を余儀無くされ、芸術系の業種の人間は当人や団体のみならず施設も含めてその殆どが失業状態にあり、芸術の中の経済は停止していると言っても過言ではないでしょう。また、他の業種においてもどうやら莫大な損失が出ているようで、大変なのはどこも同じなのかと思い知るところであります。
ここで国というシステムが動きます。いざ窮地に立たされた人を救うために、普段からお金を集めてきたはずですから、それを実質失業中のしばらくの生活のために、国民に配布するのです。別に贅沢にお金を使わずとも、この現代社会においては “健康で文化的な最低限度の生活” を送るためだけでもお金は出ていくものです。食費も光熱費も通信費も、人によっては家賃や職場の維持費もかかりますね。ただ生きるのも無料ではないわけです。現に、世界各国は既に全ての国民への現金給付という方針を打ち出しているではありませんか。これこそが “国” の機能を発揮しているというものでしょう。
で?
果たして日本政府は世界の先進国各国に続いて現金給付を打ち出したかというと、ご存じのように商品券配布というまるでコントのようなアイデアなのです。しかも和牛商品券に非難の声が上がったら今度は魚介商品券です。これがコントのネタだったら笑えたんですけどね。散々言われてきた指摘ではありますが、和牛商品券では光熱費は払えないし、魚介商品券では通信費は払えないし、肩叩き券で家賃は払えないのであります。食べ物があるだけでは生きていけないのです。
「現金給付しても貯金してしまうから」?
貯金したって日々の生活で出ていくものは出ていきます。給付された現金を貯金してなお生きていける人間はこの状況下でも働かざるを得なかったりしてお給料を貰える人か、そもそも普段から大金持ちでこの状況下でも貯蓄が充分すぎる人かのどちらかです。いずれにせよ、社会的にはそちらの方が少数派です。与党内では多数派かもしれませんけどね。
「農業や水産業は与党に献金してきたから当然だ」?
ならばこの現金給付とは別に優遇してもらえばいいだけの話です。そもそも全国民が様々な形で納税しているわけでして、お金を多く払った者だけが救われるというのは結局弱肉強食と変わりません。それが通るならば救われない国民は国にお金を納める理由が無いのです。それとも、音楽家個人や団体が与党に擦り寄っておけば「クラシック音楽の助成などと甘えたことを言いやがって!」という大衆からのバッシングは無かったのでしょうか。ここにおいては、特定の業界だけを助けるという方針自体がダブルスタンダードの謗りを免れず、国に亀裂を生むと思います。
日本の政府においては、どうしても現金給付だけは避けたいという意志があるように感じられます。国が補償する代わりに突き付ける「禁止」ではなく「要請」という言葉で国民各々に自己判断という責任を負わせて補償を免れようとする当初からの姿勢とも一貫しています。また自己責任論ですね。そこだけを一貫させるためには他のことをいくらでも二転三転させるんですけれども。
もしかすると、政府は「補償しない」のではなく「補償できない」のではないかと邪推しなくもないです。国民への現金給付という補償に使えるだけのお金をその懐に持っていない。消費税も10%に上がって、税金も納めているのに、この非常事態に使えるお金がもう無いとはこれまでにどういう使い方をしてきたのか、という話にもなるわけであります。情の時代ですから、疑念は事実以上に力を持つこともあることを皆様も痛いほど実感していると思われます。
現時点において重要なのは誰を助けるかという議論ではなく、全員を助けることです。「アーティストだけが苦しいんじゃないぞ、甘えるな!」と足を引っ張りあうのではなく、みんなが苦しいのならば、みんなで助けてもらおうと行動しなければいけないのではありませんか。自分自身は大丈夫だから現状のままで構わないというのではなく、苦しんでいる人も救われるように動こうとは思わないのですか。一体何のために “国” などという集団を人間は作って続けてきたのですか。
今後どのくらいの期間になるかわかりませんが、国が国民を養うという意味の一律現金給付こそがその最たる選択肢でしょう。それを打ち出せれば、効果の弱い自粛要請ではなくより強い自粛指示を行うこともできます。自粛して食えなくなるか、食うために自粛しないかのどちらかという、どちらにしても利益損失か感染リスクが出るマイナスorマイナスの選択肢しかない現状に「自粛するけど食える」という選択肢を投じることが、いつかこのウィルスが終息した後に国の文化も産業も立て直すことに繋がるはずです。今はどんなに借金をしてでも、です。
政治に無関心なままではいられません。他人に任せておけば上手くやってくれるだろうという考えは浅はかであります。
なに、歴史上のクラシックの音楽家たちだって音楽しか能の無い “音楽バカ” ではなく、政治に文句を言ったり、自らが政治活動に身を投じたり(、それらによって身を危険に曝したり)したのです。
実際に政治を動かすわけではない立場の人間が「こうしてくれ!」と声を上げることは、生意気でも何でもないのです。苦しいとか助けてくれとか、言いたいこと言いましょう。
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