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  • 執筆者の写真Satoshi Enomoto

【雑記】自己責任論と、音楽の行方

更新日:2020年3月23日

 この自粛によって潰れた演奏会は数多いです。かく言う僕も本番が2つ延期となりました。片やご厚意で日程を押さえた分の報酬をいただき、片や入場無償化完全赤字だったのが会場利用停止によって赤字は巨大化せず、あとは今月の定収入があるので、僕自身はまだ窮地に立ったわけではありません。来月はわかりませんけど。

 しかし周りを見てみると、既に焦土が拡がりつつあります。演奏会によって利益を出している音楽家や団体については、経費は出ていくのに収益は入らないという出血状態。雇われ仕事の「利益マイナスだけは避けられる」というメリットを痛感するところです。


 この度の演奏会自粛は政府の要請を理由にしたものです。ウィルスが紛れ込んでクラスター感染を起こす危険性もあり、主催者も音楽家も、さらには会場さえもその責任は負えないのです。演奏会に来ていただいたせいで感染を拡げてしまったら、関係者一同こんなに申し訳ないことは他にありません。ならば赤字を抱えてでも延期や中止を検討せざるを得ないのです。

 強制ではなく要請なのだから責任を取る覚悟で開催してもよかったじゃないかと軽く言ってくれる人もいらっしゃるかもしれませんが、そんな大きすぎる自己責任が取れるとお思いですか。無責任の謗りを受けた時にはそれこそ音楽家生命は終わるのですよ。

 演奏会自粛によって抱える赤字が消えるわけではありません。演奏会までの準備費用もさることながら、演奏家個人の生活における支出も忘れてはいけません。空間に消えていく音楽は、決してタダで涌き出ているものではなく、音楽家たちがご飯を食べることによって生み出しているのです。


「でも音楽家なんてそういうリスクを了承した上でやってるんでしょ?」と思う方もいらっしゃることでしょう。音楽家たちは自分の腕の拙さやマーケティング能力の乏しさによって食えないリスクくらいは恐らく承知していることでしょう。

 しかし、まさか全国どころか世界規模で職場(舞台)が閉鎖されるリスクなんて想像できます?

 3.11の時でさえ、被害の少なかった地域に出向いてチャリティーコンサートやってお金を集める程度のことはできたと思うのです。

 こればっかりは、明日職場が消滅してお賃金も入らなくなるという事態を想定しながら日々お勤めしている方だけが石を投げていただきたいものであります。


 自粛によって窮地に立たされたのはクラシック音楽だけではないはずです。演劇が行動を起こしている話は聞きました。個人的にはただでさえ既に助成を切られている日本伝統芸能なんかも気がかりではありますが、その中の事情を知る術は手元に無いので無事を祈るばかりです。

 どうも「みんな苦しいんだからお前だけ救われるのは不平等だ! 我慢しろ!」という “欲しがりません勝つまでは” 気質が根強く残っているような気はします。実際に「戦時下だと思って我慢すべし」という比喩をしている方も見かけましたけれども、食べなければ生き残れないんですよ。人々の最小不幸の実現のために “国” というシステムは作られたのではなかったのでしょうか。


 ところで、音楽家の方でも反省しておく点はあるでしょう。


 まず、収入源を限られたものに依存するリスクは酷く痛感することになったと思います。これについては僕も同様に反省せねばなりません。今回のように会場が閉鎖される例では、演奏会のみならず、その演奏会への準備や日常における伴奏の仕事も同時に吹き飛ぶのです。レッスンやレクチャーが吹き飛んだ演奏家もいることでしょうし、作品の演奏機会が吹き飛んだ作曲家もいました。音楽関連の仕事がここまで同時に消えるとは僕も思っていなかったことを白状します。

 僕が大学院にいた時に昭和音楽大学に着任した、日本を代表する作曲家でもあるJ.K先生が「作曲だけじゃ食えないんですよ」などとぶちまけていましたが、なるほど、僕も何かしら考えねば…流行に乗ってYouTubeという選択肢については、ちょっと割り切れない葛藤があるのですけど…


 そしてもう一点、クラシック音楽がファンではない一般大衆へ働きかける力の乏しさが露呈したということもあります。先日の《神々の黄昏》の熱狂は一体何だったのやら。「無くなったって誰も困らないのだからクラシックなんか潰れてしまえばいい」という心無い言葉さえ見かけました。クラシックを愛好する聴衆は困るのになぁとは思いつつも、結局は音楽が人間に働きかけるということを怠っていた面もあるのではないかと思うのです。

 日本においてのクラシック音楽は伝統芸能的だと感じています。「伝統的で価値があるから残していこうと思っている」のであって、それが「現代の人たちにとって何になるか」という視点が乏しい気がするのです。とにかくこれはいいものなんだ、価値のあるものなんだ、素晴らしいものなんだ、とばかり主張していて、今この時におけるリアリティを失っているのです。皮肉にもこれに成功したのは、かの佐村河内の交響曲でした。ヒロシマという日本人にとって他人事でない題材を、運命交響曲仕立ての演出で、クラシックに限らない聴衆の情に訴えかけることができてしまった。あれは結局騙していたのでダメですし、そんなあからさまなものにする必要はないのですけれども。

 今、ベートーヴェンやショパンやドビュッシーを演奏することが、一体現代を生きる人々の何になるのか、それを問い直しながら演奏することがクラシック音楽を “要らないもの” と切り捨てられないように人々に訴えかけていくやり方ではないかと思います。現段階でこうなってしまっているのはもう仕方ないので、この後どうしたらクラシック音楽が社会的意義をもっていると認めさせることができるか、考えたいところです。


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