2020年10月4日、Lutherヒロシ市村先生の還暦記念リサイタルを聴いてきました。コロナ自粛後、他の演奏家のコンサートへ足を運ぶのはこれが初めてです。
Luther先生とはTwitterで知り合いました。Luther先生がご自身の考えを色々と発信しては反対意見にも応えているのを見てフォローしたところフォローバックしていただき、相互フォローでありながら何らやり取りはしないという期間がしばらくあったのですが、タイミングの悪い誤解(偶然に同じ話題のツイートをしていて、Luther先生の第三者への喧嘩腰ツイートが僕への空中リプライのように見えてしまって僕が反論してしまった)で一触即発のような状態になり、DMで誤解であることを確認した…という珍事件を切っ掛けにやり取りをするようになり、共通の知り合いの存在や音楽観の共有もあって意気投合しました。現在作曲中の『テンペスト』の音楽はLuther先生にお声掛けいただいた企画のものです。
今回の還暦記念リサイタルのプログラムは、コロナウィルスの影響から換気のために2回休憩を取った以外の点でもあまり例を見ない構成でした。第1部はオペラアリア集、これは一般の歌手のリサイタルとしては普通かもしれません。第2部はシェイクスピア俳優としての朗読。Luther先生が歌手としてのみならず演劇俳優としても活動していることによって実現された部分でしょう。第3部はシューベルトの《魔王》をOPに、SNS上で色々な人によって作詩作曲された歌曲集の舞台上演となりました。ただでさえ珍しい3部構成プログラムながら、内容が多岐に渡っていて飽きる隙も無く、また貫禄がありつつも軽妙なMCは演奏家としても見習いたいものです。
オペラアリアや《魔王》についてはベテランの貫禄を見せられました。「これが…年季…!」と驚いたものです。枯れているというよりは余裕を持って色々なことを同時にこなされているような具合です。一挙一動、歌の一節一節に広義のエンターテインメントへのこだわりがあるように感じられました。歳をとると動作が鈍くなるようなイメージがありますが、Luther先生は非常に小回りが利くようでして、これは少なくとも60歳までは演奏の鈍さを年齢のせいにできないなと身も引き締まる思いです。
第2部の『オセロー』からの抜粋の朗読、『シェイクスピア遊び語り』の出張版のような枠でした。この後の3月に公演予定の『テンペスト』で僕が音楽担当をすることもあって既に公演のBDも観ていて、どんな形式なのかは知っていましたが、今回生で観てさらに期待が高まりました。
そして、ポジティヴな意味で思うところがあったものこそが、SNS歌曲集です。作詞者と作曲者がSNS上で出会ったことによって作られた歌曲作品群であり、内容はふざけたものから真面目なものまでそれぞれです。
一見するとこれは珍奇な話題作りのように見えるかもしれません。「Twitterのやり取りでできた曲なんだって~!」という時点でイロモノ扱いを受けるであろう恐れはあったはずです。
しかしあくまでもLuther先生はこれらの曲をご自身の共感から取り上げたようです。僕も先生の過去を詳しく知っているわけではありませんが、事故に遭った際に考えたことなどと、それとは全く関係無しに作詞者作曲者が考えたことが重なったのでしょう。
なにせ違うところで生きていたとしても所詮同じ人間ではありますから、そんなに無理して働きたくはないし、バレないなら泣きたいとも思うし、人間の何たるかについて堂々巡りで考えたりするわけです。SNSなどというものの用途は、“映え” を見せびらかすギャラリーに限らず、書き殴ったメモ書きを瓶に詰めて流すための無秩序な海でもあるでしょう。瓶に詰められた詩は、別の誰かに拾われて音楽を付けられて歌となり、再びSNSの海を漂流して歌い手の元へ偶然に届きました。そしてそんな漂流物はとうとう舞台に上り、僕ら聴き手の元へ届けられたのです。
たぶん、少なくとも綺麗で整ったものではないのです。映えるものでもないでしょうし、いや、むしろ歪なもの、醜いものであるかもしれません。しかしそれはどんなに歪でも、どんなに醜くとも、これらの歌曲に漂流の過程で重ねられてきた、人間たちのリアルな “共感” であると思うのです。
人間の弱さや脆さなどというものは見せられて快いものではないでしょうし、実際にそれらを「はしたない」と嫌悪する人たちもいることでしょう。華やかに煌びやかに、快い音楽を提供し、聴き手に癒しや安らぎや楽しみを与えることこそが芸だという話もわかります。しかしそれでもなお、弱い脆い “リアル” に自身を重ねることによって心が救われる人間もまた存在するのです。一瞬でも存在してしまった心当たりを歌に暴かれることは、苦しさを伴いながらも同時にどこか安堵を与えてくれるものであるかもしれません。
SNS歌曲は、その成立方法を理由にして「現代人感覚のリアル」を詞も曲も体現してしまう面があると思います。少なくとも “聖” を繕うことさえできず、“俗” の極みに位置する作品群の一つと言ってもいいかもしれません。ただし、その “俗” こそが意外な強みでもあります。
クラシックが「興味無い」(「敷居が高い」という言葉はただの社交辞令であり、むしろ本心は「溝が深い」だと思っております)と言われてしまう原因は、それが人々のリアルに届いていないからです。もちろんクラシック需要に関しては音楽がもつ背景が社会や時代ごと異なるという仕方のない面もありますが、モーツァルトやベートーヴェンを “現代の人々” に向けて届ける意義を演奏家たちが考えず、「伝統ある良い音楽だから、価値のわかる人は聴いてくれるはずだ」などとやっているうちは、壁に向かって演奏するのと同じことでしょう。
「その音楽を今演奏することにどんな意義があるのかを考えて聴き手に提示すべし」という主張は度々書いておりますが、その点、SNS歌曲は題材がどうしようもなく人々のリアルに届くものが出やすいのです。現代の人間が考えるまでもなく現代の生活感覚で詞も曲も書いているわけですから、さもありなんと言えましょう。イロモノ扱いするどころか、クラシックをすっかり骨董品のようにありがたがって続けている人間にとっては、学べることが多いと思いますよ。
余談にして個人的な話。なおネタバレ含みます。
アンコールを歌う前に、Luther先生はバリトン歌手の故・鹿又透先生の名前を挙げました。鹿又先生は去年の10月27日に闘病の末亡くなられました。僕も友人の伴奏で鹿又先生のレッスン室を訪れることが多く、何度もお世話になっていました。実は『テンペスト』の最初の打ち合わせの時点で、Luther先生が昭和音楽大学の先生方とも面識があることを知り、鹿又先生のことも話題に上がったのでした。
ところで、今回のリサイタルで伴奏を務めた伊藤那実さんは僕の大学の後輩です。そんな伊藤さんが歌の伴奏を始めた切っ掛けこそが鹿又先生の存在であったと聞いています。きっと、鹿又先生がまだ生きていたならば…Luther先生と伊藤さんの共演を大層喜んだに違いないと思うのです。此度の2人の共演から辿れば、その発端は鹿又先生が伊藤さんを導いたことに他ならず、僕はこの夜のコンサートの仕掛人に鹿又先生がこっそり入っていたと信じているのであります。
数年前からですが、音楽をやるということはその前に存在した音楽に関わった人たちのすべての魂を背負うことだと思っています。血を受け継いで生まれてきたように、音楽を受け継いで音楽をやっていくわけです。これまでに自分が感銘を受けた音楽や音楽家たちは、みんなその魂をもって背後で僕たち自身の音楽を支えてくれているでしょう。僕たちが音楽を続ける限り、彼らが遺してきた音楽の魂は消えません。そして僕らはその魂をまた次へと伝えてゆくのです。
コンサートというものは、その魂を受け取る機会だと思うのです。この夜はLuther先生たち ── Luther先生たちと “これまでにいたたくさんの人たち” からそれを受け取った会ということです。
音楽は不要なものなどではありません。自粛期間中には、音楽に対する心無い言葉を散々に聞きました。それでも僕たちが折れてしまったら、ここまで魂を繋いできた全ての人間に申し訳が立たんのであります。笑ったり泣いたりしながらも、身の引き締まるコンサートでした。
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