• Satoshi Enomoto

【雑記】理論と論理 ── 縛られるためでなく

最終更新: 3月23日

「理論を学ぶことによってそれに縛られたら自由に音楽が書けなくなる。音楽は自由に書けばいい」と主張する人たちがいる。


 和声法の教科書を読んで勉強する時に、「禁則」という単語がどうしても目に飛び込んで来ることだろう。

「連続8度や連続5度は書いてはいけません」

「導音は主音に解決しなければいけません」

「ドミナントはトニックに進まなければいけません」等々…


 しかしご存じの通り、和声の教科書に従わない音楽なんてゴマンとあるわけだ。むしろ従わない音楽の方が多いだろう。バッハにだって連続5度があるし、ハイドンやモーツァルトにだって分析不可能な和声進行がある。和声という概念の確立以前や近代以降の音楽は言わずもがなだし、そもそも非西洋の音楽については当てはまらない。ついでに僕も年に1~2曲くらいのペースで作曲をするけれども、教科書の禁則なんていちいち考えない。

 そりゃそうだ、作曲に「こうしなければならない」というルールは無い。「音楽は自由に書けばいい」とは、なるほどその通りである。


 では、どうして音楽学校では楽典や和声法が必修科目として扱われているのだろうか? これは作曲科のみの話ではなく、演奏科どころか音楽療法科等でも同様である(要求されるレベルの差はあるけれど)。

 そして何を隠そう、僕は修士課程在籍中はシニアTAとして和声学の補習を担当していた。和声が苦手だったり嫌いだったりする学生たちの問題点は割と理解しているし、それを学ぶ意味も考えていたつもりである。


 これは僕の感じるところなのだが、「和声理論を学んだらルールに縛られて音楽を自由に書けなくなる」という主張は実のところ、和声の苦手な学生たちの原因と、どうも根が同じような気がしている。

 というのも、和声の苦手な学生たちの多くは、教科書に書かれていることを“ルール”として机上で公式を暗記するように覚えようとするのである。最初から縛るものとして覚えようとして、その上で覚えることに失敗している状態と言えばいいだろうか。

 そして、それを覚えることに成功するような人たちが「和声理論に縛られて自由に書けなくなる」と言い出すのだろうと推察している。能力値ではなく、思考回路の面で似ているのである。

「音楽理論の学習は音楽において守るべきルールを学ぶことである」というイメージが広く存在すると思うが、それはある意味で誤解であると言っていいかもしれない。音楽に「こうしなければならない」というものは本来存在しないのだ。では僕たちは音楽の“理論”と呼ばれるものから何を学ぶのだ?


 僕の回答を述べておこう。

どの音がどの音へと繋がり、どのような音楽が発生するか」を考える方法を学ぶのが音楽理論の学習であると考えている。

 実際にはどの音をどの音に繋げようが構わないのだ。しかしそこで考えてみてほしい。その結果生まれた音楽は、果たして本当に自分の意図に沿っているだろうか?

 その音楽が、一体どのような音楽であるかを判断/反省/検討する能力を習得するために音楽理論を学ぶのである。

 喩えるなら、なんとなく綺麗にしたいと思ったフィーリングのまま塩素系漂白剤と酸性洗浄剤を混ぜて塩素ガスが発生したことに気付かないのはさすがによろしくないし、米と麹だけで甘酒が作れると理解していればそこにフィーリングで大量の甘味料を投入することもない、みたいなことだろうか。


 それは音楽の“論理”を読む能力なのである。

「連続5度の進行は一体どのような効果をもたらすのか?」

「導音が主音へ辿り着く時に一体どのような情感が湧き上がるのか?」

「完全終止の代わりに偽終止を用いたら一体何が起こるのか?」

 それらを究極的に言えば「どの音がどの音へ繋がり、どのような音楽が発生するのか」ということなのである。そのことを僕は音楽の“論理”と呼んでいる。


 これは探求を始めてしまうとキリの無い視点だ。ゴールは収束ではなく発散の方向だろう。しかし、誰かにその内容を教える際には、単元ごとに収束するゴールを一時的に設ける必要がある。それこそが、学生たちが暗記しようとする“ルール”の数々、つまり “西洋の、とある一時代における、説明がつく範囲内での、和声に関する論理” というわけなのである。その意識も無く「単位が貰えれば万事OKな面倒臭い必修科目」だと思って取り組むと、自ずとルール暗記という“省きすぎた”最短ルートに進むことになる。その姿勢で学んでも、自らの思考回路を縛りつける“ルール” を習得できるだけだと思うのだ。


 ところで、音楽にキリが無いことくらい最初から理解しているはずではないのか? そのキリの無さこそが即ち音楽の面白さそのものだとさえ僕は考えるのであるが、いかがだろうか? 僕らが音楽 “理論”と呼んでいるものだって、人類が見出だしてきた音楽 “論理” の集積である。音楽を本気で志す者にとっては、西洋の一時代の和声理論だけでは「足りない」とさえ言っていいかもしれない。キリが無いとわかっていながら、そのキリの無いものを学ぶのだ。

 自分なりに論理を考える能力を獲得するための “論理の勉強” だと思えば、勉強も楽しくなる…かしら。


 余談。


 上路実早生くんとの会話。

上路「榎本くんはさ、『音同士をどういう考えで繋げるか』っていうことを重視してるよね」

榎本「わかられている…(笑)」


 そんな上路くんとのレクチャーコンサート『和声:変革の時代』は3/14(土)18:00より武蔵小杉にて!

 ドビュッシー、スクリャービン、シェーンベルクが旧来の音楽 “理論” を超え、独自の音楽 “論理” を導き出す過程を追います。


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