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【探訪記】《城ヶ島の雨》と三浦三崎の北原白秋

  • 執筆者の写真: Satoshi Enomoto
    Satoshi Enomoto
  • 6 分前
  • 読了時間: 6分

城ヶ島の雨


雨はふるふる、城ヶ島の磯に、

利休鼠の雨がふる。

雨は眞珠か、夜明の霧か、

それともわたしの忍び泣き。

舟はゆくゆく通り矢のはなを、

濡れて帆あげたぬしの舟。

ええ、舟は櫓でやる、櫓は唄でやる、

唄は船頭さんの心意氣。

雨はふるふる、日はうす曇る。

舟はゆくゆく、帆がかすむ。


北原白秋



 月一で開催している地元町内会主催の童謡唱歌を歌う会において、今月は初めて北原白秋作詞/梁田貞作曲の《城ヶ島の雨》を取り上げます。


 大学の副科声楽のレッスンでも歌った思い入れのある曲ですし、数年前には初日の出を見に城ヶ島へ行ったこともあります。アクセスがそこまで悪いわけでもないので、白秋について調べることを目的に、実際に足を運んでみました。



 というわけで降り立ちましたのは京浜急行の三崎口駅。ここからさらにバスに乗って城ヶ島へ向かいます。馬堀海岸から三崎口までの乗車時間は30分ほどですが、ここからさらにバスに乗って城ヶ島まで行くとなると、バスの待機時間も込みでどうしても1時間ほどはかかりますね。



 完全な余談を一つ。三崎口駅は京急の終点であるわけですが、油壷への延伸が考えられていた形跡が残っているのが萌えポイントであると思っています。



 三崎口駅から南は完全に車社会となります。


 以下の写真はバス停に掲示されていた路線図です。気になる地名がいくらか見つけられると思います。


 やはり真っ先に注目すべきは「通り矢」でしょうか。《城ヶ島の雨》の歌詞中の「舟はゆくゆく通り矢のはなを」という部分に出てくる「通り矢」です。「岬端の離れ岩と岬の間を通る潮流が矢のように速い」という漁師たちの比喩から付けられたと考えられる地名ですが、関東大震災や護岸工事を経て、白秋が見ていたであろう通り矢の風景は今はもうありません。


 ついでに「海外」と書いて「かいと」と読む地域もあります。語源は恐らく「海戸」または「海門」であると思われるわけですが、「日本から出ずに『海外』に行ける!」というジョークにもなっています。


 今回の榎本が最初に向かったのは「白秋碑前」です。展望台がある城ヶ島公園に行くのにもここで降りることになります。「城ヶ島」は城ヶ島灯台に行く時に降りることになるバス停ですね。ちなみに初日の出を見る時は「白秋碑前」で降りてください。



 さて、そんなこんなで城ヶ島大橋を渡って城ヶ島に来ました。



 城ヶ島大橋のすぐ足元に北原白秋と梁田貞の碑はあります。



 まずは白秋の詩碑から。《城ヶ島の雨》から「雨はふるふる 城ヶ島の磯に/利休鼠の雨がふる」の部分が刻まれています。帆の形に見える岩が浜辺に突き立っているような碑の形状は生前の白秋自身からのリクエストであるようです。



 一方でその足元には梁田貞の譜碑があります。写真では見えにくいかもしれませんが、現在一般に知られている3/4拍子ではなく9/8拍子で表記されています。大正10年に刊行された小冊子の楽譜も9/8拍子で、しかもニ短調で書かれていますから、元々はこちらだったのかもしれません。



 すぐ近くには白秋記念館があります。白秋が中心ではありますが、梁田貞、さらにはその周りの関係者についての資料も展示されていました。わら半紙のちょっとしたパンフレットが貰える他、白秋が三崎で書いた『雲母集』についての小冊子や記念タオルなどを買うことができます。


 なお、館内撮影禁止の表示があったので館内の写真は撮れませんでした。観覧中は白秋が作詞した色々な歌の音源を流してくれます。



 さて、城ヶ島にある碑と記念館を見たわけですが、実は白秋が住んでいたのは島内ではなく本土側。城ヶ島観光をたったこれだけで切り上げ、城ヶ島大橋を渡って白秋の足跡を追います。


 1912年に白秋は隣家に住んでいた人妻(夫と別居中)の松下俊子と恋愛関係になり、その夫によって姦通罪で告訴されました。既に白秋が詩人として評価されて有名になりつつあったことを狙ってのものであったようです。後に和解が成立したものの、この事件によって白秋には悪評が付きました。


 大正二年一月二日私は海を越えて三崎に行った。死のうと思ったのである。

 恐ろしい心の嵐が凡ての優しい表情を無残にも吹き散らしてしまった。

 私は海を見た。ただ波ばかりうねっていた。

 山には紅の椿が咲いていた。

 私はあきらめきれなかった、どんなに突きつめても死ねなかった。

 死ぬにはあまりにも空が温く日光があまりにもまぶしかった。


 『朱欒』大正二年二月号


 この1913年、大正2年1月の三崎滞在は10日余りに及びました。この時のノートには、当時の白秋の状態が分かる歌が詠まれています。


 ただ一人帽子かぶらず足袋穿かず櫻の御所をさまよいて泣く


 この歌は棒線で消されており、『雲母集』にも載っていません。


 同年の5月に、再起を図るために白秋は一家で向ヶ崎(むこうがさき)の異人館へ移住しました。現在その場所は向ヶ崎公園となっています。この向ヶ崎にいる時から、島村抱月の芸術座から依頼された『城ヶ島の雨』の作詞は始めていたようです。今のように様々な建物や城ヶ島大橋も無かった時代ですから、白秋は通り矢を眺めながら過ごしていたかもしれません。



 白秋は文芸雑誌『朱欒』の編集によって稼いでいましたが、三崎に来てから殆どすぐに発行所との対立から仕事を投げ出し、また父と弟が始めたイカの仲介業も悪質なブローカーに引っかかって売掛金を騙し取られてしまったために生活が成り立たなくなり、10月には白秋夫妻を残して一家は東京へ引き上げることとなりました。


 異人館を引き払って白秋夫妻が身を寄せることになったのが、二町谷(ふたまちや)にある見桃寺(けんとうじ)でした。白秋記念館には古い見桃寺の写真が残っていたのですが、現在の見桃寺はだいぶモダンな見た目になっていて驚いています。また、ここにも白秋の歌碑があり、こちらは晩年の白秋が除幕式に出席しています。



 見桃寺に移ってから程無くして、岩崎雅通が舟唄、すなわち『城ヶ島の雨』の作詞の催促にやってきました。10月30日が音楽会の本番だったのですが、なんと白秋が岩崎に歌詞を渡したのは27日の夜、作曲者の梁田の手に歌詞が届いたのは28日です。音楽史上ではたまに見かける超突貫作曲ですね。


 梁田はほぼ徹夜で作曲し練習し、合わせの回数も少なく松平信博のピアノ伴奏で梁田自身が歌って初演が行われました。どうやら初演の反応は芳しくなかったらしく、後に奥田良三が歌ったことによってヒットしたと言えるのでしょう。


 翌年の1914年の1月には見桃寺を離れ、当記事で先述した難読地名である海外(かいと)へ移り、そして2月に白秋は三崎から小笠原へと渡ったのでした。9か月ほどの三崎生活であったものの、白秋は『雲母集』の中で「私にとっては私の一生涯中最も重要なる一転機を画したものだと自信する。」と書いています。



 寂しさに浜へ出て見れば波ばかりうねりくねれりあきらめられず


 寂しさに男三人浜に出で三人そろうてあきらめられず


 これらは『雲母集』の中で「二町谷」と記された2首ですが、大正2年1月に白秋が自死を決意して三崎を彷徨していた時に書かれたものです。見桃寺からすぐに海に出た現在の風景がこちらです。



 かつて白秋が歩いたところであるのかもしれません。


 当初は《城ヶ島の雨》の楽曲背景を調べてついでに楽譜資料も見られればいいかなという程度のつもりで今回の三崎探訪を決行したのですが、五感を刺激する三崎の空気に触れることもできた有意義なものとなりました。

© 2018 Satoshi Enomoto

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