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  • 執筆者の写真Satoshi Enomoto

【雑記】演奏家の手癖の反映


 ここのところは講座やレッスンの資料作成に加えて、譜面も書くというデスクワークの山に追われています。コダーイラボは今月が最終回ですから、これがそろそろ一段落するでしょうか。そうは言っても、今年中はすっかり予定が埋まったと認識してよいくらいの日々になっております。


 そんなわけで、作編曲や浄書など楽譜を書く仕事をする度に考える「演奏家の技術や手癖が楽譜に反映される」という話をダラダラと書きたいと思います。専門的な話ではなくただの雑記です。



 

 作曲や編曲をする時に、自動演奏されるDTMはさておき、生身の人間が演奏することが想定されるものに関しては、それが本当にちゃんと弾けるものであるかどうかということは確認するようにしています。


 …とは言っても、自分で何でもかんでもできるわけではありません。自分の声域内だったら歌って確認はできますし、ピアノも弾いて確認できます。しかし正直それだけです。僕は吹奏楽も未経験ですし、鍵盤楽器以外の知識は殆ど机上でしか知りません。


 このような時にイメージするのが、周囲にいる音楽家たちです。プロフェッショナルもアマチュアも含めてです。周りの各音楽家たちが演奏しているのを聴いたことがあるものを思い出しまして、それらと比べて演奏できそうだと判断できるものは一般の音楽家も演奏できるものとするという方針を採っています。


 既に今回の笑い話に気付いた方々も少なくはないでしょう。このような判断方法は、僕の近くにいる音楽家たちが一般的な範囲内の技術の持ち主であるという前提は無いのです。声楽家はどんなに高い音でもどんなに低い音でも、蓋全開のピアノの音量を超えて出せると思っていますし、クラリネット奏者は皆シェーンベルクやメシアンを吹けるものだと思っています。合唱団は1パート1人でも成立しますし、声を殺して歌う人もいないだろうと考えています。


 さらに振り返りを深めますと、僕はピアノを自分で弾きますし、歌も歌います。それはつまり、ピアノの奏法が可能であるかどうかの検討の基準は僕の手にあり、難しいメロディがソルフェージュできるかどうかも僕自身のソルフェージュ能力が基準です。


 無茶を強いるパッセージにクレームがついたところで、その対応は「できる人が存在します」または「僕は弾けました」のどちらかになります。このあたりはご容赦・ご覚悟いただくしかないのが現実ですね。


 

 歴史上を振り返ってみれば、同時期にいた演奏家や本人の技術や手癖が作品に投影される例は少なくないと思われます。ラフマニノフの分厚い和音やスクリャービンの左手の超絶技巧は、彼ら自身が弾けたからそう書かれたのでしょう。モーツァルトの《クラリネット五重奏曲》《クラリネット協奏曲》はシュタードラーの存在無しには書かれなかったでしょうし、ベートーヴェンのコントラバス書法の陰にはドラゴネッティの演奏技術がちらつくという話も聞きます。


 ちなみに僕が今特に立ち向かっているものがブラームスのピアノ書法です。これが物理的にそもそも難しいのです。初演で本人が弾けているので人間に弾けない曲ではない…などと自分には言い聞かせつつも、難易度は変わらないというものでして。


 僕が認識していない例はたくさんあるでしょう。その曲を演奏してきたこれまでの人々がどのような技術や手癖を持っていたかを考えることは、自身が今取り組む時においても一つのヒントになるかもしれません。



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