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執筆者の写真Satoshi Enomoto

有名曲を選びたがること

 自分の師事した先生ではないのだが、ピアノ指導者の世界では高名なとある先生のところに一度だけ伺ったことがある。僕が現代の作曲家、さらには同世代の作曲家の作品を紹介していきたいということを話したところ、たぶん「その世界は食えないよ」と釘を刺すためだったのだろうなとは思いつつも、次のようなことを仰った。

 

「クラシック音楽には長い歴史の中で作品が沢山残っている」


わかる。


「歴史上のピアノ作品を全部弾くことは一度の人生のうちにはできない」


それもわかる。


「だからそんな誰も知らないような曲ではなく、クラシックを代表する有名な曲を弾くべきである」


……うん?????


 

 さて、バロック時代の始まりは定義の上では1600年(最初のオペラが書かれた年)。そこから数えても現代までには400年と少しの歴史があり、多くの作曲家が多くの作品を遺してきた。そしてそれらの作品は好まれたり嫌われたりしつつ、年月の中で淘汰を経てきた。なので、現代においても好まれて演奏される作品はこれまでの年月の中でも好まれて演奏されてきたものだと“みなされている”、即ち、クラシック音楽を代表する「名曲」となっている。

 まあ確かにわからないでもない。いつの時代でもそれらを面白いと思う人々がいたということは、その作品にもやはりそれなりにポテンシャルがあったわけで、確かにそれほどの面白さが無ければ「名曲」に登り詰めることはできない。


 だが、ちょっと考えてみてほしい。

 そのことは「名曲とは呼ばれていない作品」を面白くないものであると断定する根拠にはならないのではないかと、僕は思うのである。

 

 大学院の一年生の時、声楽の山崎裕視先生の下で『よみがえる名歌』というレクチャーコンサートの伴奏を担当した。「名歌」などと銘打っているが、このプログラムがまたマイナーな歌曲ばかりだった。歌った学生たちも誰も知らないような曲ばかり、参考音源等は一切無しという中で演奏者全員非常に苦労していたのだが、どれも斬新で面白い曲ばかりだったのである。歴史に埋もれるとは考えにくいほどの、である。この時に山崎先生が言ったのは「これらの曲は高い音楽性をもちながらも忘れられていた。それは難易度が高く、演奏者の負担が大きかったからだ。演奏を渋られているうちに忘れられてしまったのだ」ということだった。

 そしてこのことを、翌年に着任した作曲家 近藤譲先生の授業(作品研究。大学院ではなく学部の科目だが聴講していた)でも聞くことになる。曰く「作品が残っていくかどうかの基準は、聴衆に好まれるかどうかではなく、演奏家がいつまでも演奏するかどうかである」とのことであった。例えばシェーンベルクの音楽なんかは当時も聴衆の大反発に遭ったわけだが、それでもシェーンベルクの音楽が現代まで残ったのは、シェーンベルクの音楽に理解を示して何度も根気強く演奏を続けた演奏家たちの存在があったからなのである。

 「クラシック音楽では、長い年月の中で聴衆が判断し、傑作が残り、駄作が淘汰されてきた」と、そう考えがちだ。つまり駄作を淘汰したのは“長い年月をかけた聴衆の判断”である、と。ところが、事実は少し異なる。作品が淘汰されるかどうかは、演奏家がほぼ握っているのである。

 音楽作品を歴史から淘汰するのは簡単なことだ。演奏家が誰一人として“その作品を演奏しなければいい”のである。このことはその作品が傑作か駄作かに関わらず言える。演奏家が作品を演奏しないことによって、必然的に聴衆の耳にもその音楽は届かないことになる。聴いていないのだからもちろん記憶にも残らない。あとは時間が存在ごと忘れさせてしまえば完了である。もちろん、演奏家ではなくとも研究者たちが作品を繋ぎ止めたり掘り返してくれたりしているが、結局聴衆には忘れられており、いざ掘り返してみても「どうせ忘れ去られた無名の曲でしょう?」という見方をされることになる。そうなってしまってはどんなに面白い作品ですらもただの記録として細々と生き続けるのみである。


 そして今現在、こうしている間にも、“有名”な曲は何度も演奏されて演奏者と共に喝采を浴び、“無名”な曲は山積みの資料に埋もれて忘れ去られていくのである。こうして今日の殆どのクラシックの演奏会は“限られた作曲家”の、しかも“限られた作品”がローテーションされている。演奏家がその作品を「演奏しない」と判断することは、聴衆がその作品を聴く機会が失われることを意味するのだ。それを偏らせてしまっては音楽は先細る。


 

 提言。音楽を専門的に学んだ演奏家ともあろう者ならば、“有名”か“無名”かではなく、“その曲を聴衆に提示して聴かせる意義があるかどうか”で判断して演奏してみせるべし。“無名”であることは必ずしも“演奏する価値の無い作品である”ということを意味しない。

 “無名の傑作”を掘り起こし、この歴史の上に復活させ、その価値を提示してみせるのだ。さらには、まさに今この時代に新たに作曲されていく作品を演奏することによって、この手で音楽史の最先端に石を積むのだ。

 作品が“有名”か“無名”かは、過去の人々、特に演奏家たちの判断によったものだ。未来のことは僕たちが考えよう。


 過去を繰り返すクラシックか、すべての時代が進歩するクラシックか ──

 ── さあ、どっちがいい?

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