大学院を修了する年の1月末の話ですが、作曲家の葛西竜之介さんと一緒に亀田誠治さんのラジオに出演したことがあります。『音大ってどんなところ?』というテーマでの鼎談でした。
亀田さんが音大出身ではないながら音大事情を知っていたのにも驚きましたが、それはさておき、僕も葛西さんも「音大は実技ばっかりやっているところではない」「音楽史や語学も必修で勉強する」などという話をした記憶があります。
緊張していたのでそこまで喋れなかったのですが、音大の選択科目には美術史や演劇史、心理学や体育実技なんかもあるということも出しておけば良いネタになったのではと今になって惜しく思います。レッスンの形態をとる実技だけでなく、音楽史や音楽理論といった音楽教養、ソルフェージュ、語学、一般教養など、音楽に重点は置きつつも色々な科目が揃っているのです。
音大は実技をやるだけのところではありません。もちろん実技は大切ですし、学科も器楽学科だの声楽学科だの作曲学科だのと分かれているのですけれども、音大は実技も込みで音楽を学問として研究するところなのです。僕が修了した昭和音楽大学大学院(修士課程)では、それぞれの科に分かれて別カリキュラムなのではなく、全員が「音楽研究科」という同じ科に所属します。
ただ、世間には音大の華やかなところしか見えていないのも事実でありましょう。音大生は日々ひたすら演奏の練習や作曲だけに取り組んでいて、定期的にコンサートで披露して拍手をもらい、行く先は音楽家になる…という、なにやら “音楽家(スター)養成機関” のようなイメージを持たれている節は大いにあると思われます。実際には音楽療法やアートマネジメントなどを学ぶ科があることさえ目もくれずに。
それは “実技としての音楽” というものを一般の人々よりもずば抜けてできる人間の集団への驚異から来るものだと思うのですけれども、一般の人々どころか、音大に入ろうとする人たち、果ては音大生でさえ、その実技に劣らず “学問としての音楽” が重さを持っていることに気付かない人がいるのです。
コダーイは「音楽を自らの主科とみない人は良い音楽家になることはできない。楽器は第一の副科にすぎない」と言いました。楽器とは言っていますが、声楽や作曲、さらには他の専攻についても同じことでしょう。音大において学ぶ音楽史も音楽理論もソルフェージュも語学も一般教養も、その全てが近かれ遠かれ「音楽(音楽の○○)について考える」ための材料となるのです。それら “材料” を選り取り見取り集めることができる巨大なアーカイブこそが音楽大学であると、僕は考えています。
意地悪な言い方をしてしまえば、音楽にまつわる知識をさておいて実技の能力だけを伸ばしたいと思ったら、音大に行くのではなく音楽家に個人的に師事すればいいでしょう。音大の教員は全員が全員、毎日音大で教えているわけではありません。講師として週に数日教えに行っているけれど自宅で行うレッスンの方が多い人だっています。また、敢えて音大と距離を置いて教育活動を行う音楽家も存在します。レッスンだけを享受したいならば、それは音大ではないところでも手に入ります。
それでもなお音大が存在意義をもつのは、個人の音楽家に弟子入りするだけでは到底手に入らない、多くの音楽家、音楽研究者、さらには音楽に限らない研究者たちによって築き上げられた音楽にまつわる知のアーカイブにアクセスし放題であるという点にあるのです。
今現在においては、音大出身でない音楽家の活躍も目立ってきました。音楽家として実技が巧いかどうかという観点に限ってしまえば、音大を出たからといって必ず上位の存在として見られるかといえばそんなことはないのです。そして、その観点に限って音楽を評価しようと(あるいは評価されようと)した瞬間には音大の存在価値を見誤ることでしょう。
音大を出たのならば、在籍中に学んできたことを総動員して、音大出身でない音楽家たちにはできないようなことを一つや二つやってみろという話なのであります。埋もれた作品の発掘と発表、既に手垢の付いた作品の新たな演奏可能性の提案、複雑な作品の解説実演、惰性的な演奏習慣の打破、恒例化してしまったプログラムの大胆な刷新、聴衆の鑑賞意識改革…できることは色々とあるはずです。
音大に行くということは、こういった力をも身に付けることでありましょう。このような活動に意識の向かない人間が「音大に行かなくても音楽はできる」と宣うならば、それは音楽について考え及んでいない部分があるのでは、と思うところであります。
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