【雑記】優里《ベテルギウス》の冒頭の歌詞は特におかしくはないと思う
- Satoshi Enomoto
- 2 日前
- 読了時間: 4分
更新日:12 時間前
空にある何かを見つめてたら
それは星だって君がおしえてくれた
優里《ベテルギウス》より
…この歌詞が「おかしい」という話を時々目にします。曰く、「空にある星を見てそれが星だと判らない奴がいるか」「星を知らんのか」「見ればわかるものを教えにくるのか」などと、散々な言われようです。
SNSなどでは専らこのことを揶揄する投稿がインプレッションを荒稼ぎし、他の媒体でも「星を知らない状況とは?」などという面白半分のネタ考察が為される始末であり、これは流石にこの曲が浮かばれんな…と他人事ながらに思うところです。
いや、先日これを合唱編曲しましたので、本心的にはあまり他人事でもありませんでした。編曲作業をする上でこの曲を何度も聴いたり取コピしてピアノで弾き歌いしたりしていたのでありまして、その中での自分の感覚では、件の歌詞は捉え方によっては全くおかしなことは無いと言えるものであると考えています。
作者本人がそう言っているわけではなく、榎本個人の感覚でどのように捉えているかをダラダラと書きたいと思います。
そもそも、歌詞は小説を読むのと同じように読めばよいとは限りません。小説の筋書きのような風体の楽曲が流行ったこともあって、そのように読まれてしまうこと自体は今やある程度無理もないことなのでしょうが、まずはその捉え方から一歩引きましょう。
歌詞、詩に用いられる言葉は、辞書に書かれている通りの意味を持っている必要がありません。これが会話文や論説文において適用されてしまっては困るところですが、詩においては許されます。
空にある何かを見つめてたら
この詩における「空」は果たして僕たちが思うところの空でしょうか。まあベテルギウスというタイトルもあることですし流石に空でしょうかね。しかし、空であると決めつけないこともできます。例えば「広い世界」の比喩として「空」という言葉を持ってくることもできるでしょう。
さらに、「空にある何か」という言葉についてもよく考えていただきたいと思います。この語り手が見つめているであろう「空にある何か」は、本当に物体存在たる「星」のことでしょうか。「星を見つめているわけではない」可能性も考えられはしないでしょうか。あるいは、そもそも「見つめる」、つまり視覚を通すということが本当に行われているでしょうか。極端な例を出しますが、「脳裏に浮かぶ形容し難いものに対して意識を向けている」状況は、「空にある何かを見つめる」と詩的に表現することも可能です。
勝手な妄想要素を取り払ったとしても、「空にある何か」と呼ばれているものが、もはや「星」であるとは限らないであろうことはご理解いただけるでしょう。実際に見つめているものは「星一つ無い虚空の中に、なお浮かんで見えている何か」であることも考えられるのです。
そのような捉え方に立つと、次のテキストからも別のものが見えてくるでしょうか。
それは星だって君がおしえてくれた
さあ、この歌詞が言う「星」とは果たして実物の星でしょうか。「"星"という言葉に喩えることができるもの」である可能性もありますね。実物の星であるかどうかどころか、それが何なのかすら判然としない、そんな「空にある何か」のことを、君は「それは星だ」と言い切るわけです。「星」と呼べるほどのものとは一体何なのでしょうか。
単なる状況説明文としてこの歌詞を受け取れば、「星の存在を知らない語り手が星を見つめていて『それは星だよ』と教えてもらっている」などという随分と珍しいシチュエーションになってしまうのも無理はないでしょう。これは文章読解力を上げれば解決するような問題ではなく、そもそも方向が異なります。
正確に言葉の意味を捉えることだけが至上・至高というわけではないでしょう。言葉から想像の可能性、イメージの翼を広げるという楽しみ方が存在し、それが特に詩においては許されていると言えるでしょう。このような技能には点数も付かなければ、テストに出しようもないのですがね。
ここまで偉そうに自説を開陳しておいて、作者本人に「そこまで考えてない」とか言われたら笑い者ではありますが、まあしかし榎本の中では上記のように考えておくことによって件の歌詞に対するネット上の揶揄の雑音をシャットアウトできております。皆様も自分なりの解釈を投影してみてください。詩にはその余白があるのだから。



