【雑記】言語を学ぶことについて
- Satoshi Enomoto

- 8月30日
- 読了時間: 4分
牛歩ではあるものの、ここ半年ほどで語学を独習しています。具体的にはドイツ語と韓国語です。
研究している音楽がドイツ寄りなのでドイツ語に触れる機会自体はこれまでも少なくなかったのですが、それは特段日常会話などではないため、いっそのこと基本からやってみようと思い立ちました。
その際、同じゲルマン語派である英語と比較しながら習得してみようと思い、実践しているところです。所々で構造(発想)が似ているところもあり、また一方で全く異なる構造になるところもあり…と、なかなかスムーズにはいかないまでも、面白いとは思えています。
この英語-ドイツ語の関係と同じようなものをもう一つくらい体験しておこうと思って選んだのが韓国語でした。語順が日本語と同じという点だけは知っていたので「直訳でどうにかできるのでは?」と思ったことが最大の要因でした。地理的にもお隣ですし、個人的には韓国人コミュニティの方々がコンサートに来てくださったことがあるという恩もあり、挨拶くらいはできた方がよかろうと思った経緯もあります。
この記事では「今更言語を学んでみて考えたこと」を書いていきます。正直なところ、義務教育下においてさえも同じことを考えるチャンスは存在したはずだと思うのですが、当時の僕が考え至ることができなかったことでもあります。
とりあえず既に知っている日本語と英語に加えてドイツ語と韓国語、合計4つの言語に触れているわけですが、まずぶっちゃけた話「この言語は素晴らしい!」などという感想はどの言語に対しても無く(部分的に好きな箇所はどの言語にもある)、むしろ「何だよこの言語はよ」と思うことの方が多いです。そしてこの感想は日本語に対しても適用されます。
どの言語に対しても、文字なり発音なり文法なりにおいて「どうしてこんなに不便なことを…」と思うものです。子音と母音が見えなくて文字の数が多いくせに音韻は少ない日本語、発音の聞き分け言い分けが難しい韓国語、名詞の性が覚えられない上に冗談みたいな数の冠詞があるドイツ語、発音を書き分けるための文字が足りないと思われる英語…
「なんでそんな設計になってしまったん?」という感想は上に挙げた以外の言語に対しても抱くことになるでしょう。どのようにそのような形に決まったのかは知る由もないですが、文化なり歴史なりに、あるいはその他の要素にも要因は求めることができるのでしょう。他言語から借用した言葉も意外と多く、学んだ言語の特徴からその背景にある文化や歴史などについて考えることができるというのは面白いことです。
思えば、義務教育・高等教育で英語や古文漢文を学んだことについては、英語や古文漢文そのものを使いこなせるかどうかという意義の他にも、「言語を学ぶとはどのようなことか」という感覚を得るという意義があったのではないかと、今では考えることができるようになりました。
確かに古文や漢文を直接使う機会は日常的には滅多にありませんでした。たまたま自分が作曲家なり演奏家の立場として古文漢文をテキストとして取り扱うことになった例があるくらいで、意識的に触れに行かない限りは触れることにはならない分野かもしれません。少なくとも日常会話をわざわざ古文で喋ることはほぼ無いでしょう。
それらの言語のテストで点数が取れるかという観点では「テストの後は使わないのだから勉強しても無駄」などという意見も噴出するでしょう。テストで点数を取るために「その言語はそういうもの」と固定して攻略に邁進するのではなく、むしろ「この言語はどうしてこのような言語になったのだろうか?」という観点で取り組めれば、英語や古文漢文の学習によって得た知見はその後どんな言語の学習に向かった時にも活かせることになるのではないかと考えています。
所謂 "日本スゴイ" 系のコンテンツの中には過剰に日本語を称揚するものが時々見られます。どのような言語にもそれぞれの特徴があり、特有の文化背景・歴史背景などを背負ってそのような姿になっていることを実感してみると、特定の言語を称揚し誇ろうとする(さらに他の言語を貶める)姿勢は空虚ないし愚かしいものに見えます。日本語だろうが何語だろうが数多の言語の一つでしかなく、それは決してマウントを取るためのものではありません。







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