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【雑記】「ニューメディア」は嘘つきだ!:陰謀論を引き摺り降ろせ

  • 執筆者の写真: Satoshi Enomoto
    Satoshi Enomoto
  • 8月21日
  • 読了時間: 7分

 僕は普段からブログやSNSを駆使して活動の広報を行っています。チラシも蒔いているにはいるのですが、しかしやはりどちらかと言えばネット上の広報の方が集客には繋がっているように感じます。なにせやっている音楽がニッチなもので、むしろニッチなものを自発的にサーチしているような人に発見されやすいという面があるのでしょう。


 どうやら今は、新聞、雑誌といった紙媒体はおろか、テレビやラジオが「オールドメディア」と呼ばれているようです。それに対する「ニューメディア」はWebサイトや動画サイト、SNSなどのことでしょうかね。かつてのナチ党は当時の「ニューメディア」たるラジオやテレビを駆使して政治宣伝を行ったものですが、それらも今や「オールドメディア」区分です。


 この区分から考えるに、僕がこうしてブログ記事を書いたりSNSを更新したりという行動もまた「ニューメディア」上でのものと捉えられるでしょう。


 「ニューメディア」たるネット記事やSNSを展開している立場としては、このツールの利点は既存の社会的影響力を持たない自分でも自己判断に基づいて情報を公開・展開できることにあります。それこそ自身の判断に基づいてコンサートや勉強会の宣伝をすることは自由であるわけでして、例えば「この宣伝の文言が効果的ではないので情報公開できません」などというシステムはありません。もはやコンサートや企画と関係の無い考えや日常を発信することもできます。


 広報としてこのようなWebサイトやSNSを活用している立場からすれば、自身の所有・管理するWebサイトやSNSは「極めて自分に偏った発信が許される」という性質をもった発信ツールであるからこそ、個人の広報ツールとしての役割を担っています。自分のコンサートの宣伝をしても「偏向だ!」などと非難してくる人はいませんし、仮にいたとしても指摘は的外れでしょう。


 今や大多数の人々がネットに参入し、たとえ広報や動画投稿に使わなかったとしても、それらのアカウントを持っていること自体は珍しいことではなくなってきたでしょう。「ニューメディア」の台頭は、「本人の立場や視点に偏った情報を発信する」というハードルを大きく下げたと考えてよいと思います。



 昨今の「オールドメディア」と呼ばれるメディアに対する不信感と「ニューメディア」と呼ばれるメディアに対する過剰な信頼感については、「ニューメディア」が「一般大衆自身も発信することができる」という性質をもつものであることも一因として考えられるかもしれません。


 例えばシンプルに、私生活上においてどこに出掛けた、何を食べた等といった出来事や事実を正直にネット上に発信公開する時、その内容は発信する本人にとっての事実であり真実であるでしょう。実際にはどのような事柄をどのように発信すれば良さげに見えるかということを意識的になり無意識的になり考えてはいるでしょうから、それは程度の差はあれど必ず脚色されたものになるわけですが、そのことこそが発信時における情報の恣意的な取捨選択であることを自覚している人は稀少かもしれません。


 当人に「自身についての脚色された情報を発信している」という自覚がある場合には、ネット上にアカウントを持っている他者が同様に「彼ら彼女らなりに脚色した情報を発信している」であろうということに思い至ることができるでしょう。しかし一方で、当人が「自身について正直に事実・真実を発信している」と思い込んでいる場合には、同様に他者が発信する情報を事実・真実であると思い込むリスクも大きい可能性があると考えています。


 しかも自分自身が発信するという行為自体は自分自身の判断に基づいて他者の干渉を受けること無く発信ができているものですから、「相手も第三者の干渉に歪められること無く事実・真実を発信している」はずであるという信頼を抱いてしまうという構造も存在するかもしれません。実際には第三者の干渉など無くとも、当の第二者の手元でいくらでも情報を歪めることはできてしまう(全く歪めないことの方が難しい)のでありまして、「第三者の干渉がはたらかないこと」と「その情報が歪んでいないこと」は到底イコールではないでしょう。



 この「ニューメディア」なる発信手段の歪みを覆い隠し、むしろまるで純正な情報を伝えるものであるかのように信じ込ませる体制を構築・補強するために、「オールドメディアはこれまで嘘を伝えてきた」という直球の陰謀論が吹聴されることになります。確かに件の人々が呼ぶ「オールドメディア」たる新聞や雑誌やテレビが発信する情報が必ず正確なものであるとは言えないでしょう。それらを発信する組織の考えや姿勢、体制によって内容にも揺れは起こりますし、勢い余って誤報が出ることもあります。


 しかしこれも当然ですが「オールドメディアが誤りを発信する」ことは「ニューメディアは正しい」ことを全く意味しません。それどころか「オールドメディア」が誤る程度よりさらに大きく「ニューメディア」が誤っている可能性さえ充分にあり得るのです。「ニューメディア」が発信者個人の姿勢や判断によって自由自在に偏向できるという性質をもつことは先述の通りです。むしろ完全ではないにせよ複数人や組織内のチェックが働くであろう「オールドメディア」の方が変な主張は罷り通りにくいでしょう。


 「ニューメディア」の力を借りて利を得ている人々は旧来メディアを「オールドメディア」と呼んで貶めることによって相対的に「ニューメディア」の地位を引き上げます。その目的はひとえに、自身の発信力をさらに増強させることにあります。このことからは、そもそも「ニューメディア」/「オールドメディア」という区分自体が一部の人々の発信力のための恣意的な区分と呼び方であるということも読み取れるでしょう。


 「オールドメディア」も「ニューメディア」も、どちらも決して到底信奉の対象になどなり得ず、いずれもどのみちメディアという発信の道具にすぎないことを、この社会で生活する人々がきちんと認識する必要があります。どのメディアが発信しているかということは、その発信が真実であるか虚偽であるかという判断基準になり得ません。


 検索エンジンは質問を入力すれば真実を教えてくれる魔法のテキストボックスではありません。検索エンジンは検索した文字列を文中に含むネット上のページをピックアップして表示してくれるだけの道具です。あなたが陰謀論的な言説を検索すれば、検索エンジンが拾ってきてくれるものは他の誰かが書いた陰謀論です。あなたは真実を発見したのではなく自分の同類を見つけただけです。


 僕も戯れ半分にAIに楽曲解説を書かせてみたことがありますが、そこそこ有名な作品について書かせても絶妙に誤りが混入するのでうんざりしたものです。ネット上で複数のページを参照して情報を収集して文章を組み立てているのだろうとは想像しますが、参照したページの情報が誤っていればAIが誤った解説を書くのも無理はないでしょう。陰謀論を振り撒く人が「AIの要約を読んだ」ということを根拠にしているのを見る度に僕は頭を抱えています。



 このようにここまで書いてきましたが、僕の発信ツールであるブログ記事もメディアの一つであり、「ニューメディア」と呼ばれるものの一つには違いないでしょう。僕は極めて僕の視点に偏った発信をしていることを認めます。「ニューメディア」を用いることによって、このような極めて個人の視点に偏った発信が可能になるということを実際に見ていただけたことかと思います。見出しなんかも普段より釣りっぽく書いてみたのですが、いかがでしたでしょうか。


 目指すべきは、「ニューメディア」信奉者たちが信ずる「ニューメディア」の信頼性自体を徹底的に毀損することです。差別主義、選民思想、歴史修正主義などを支える「ニューメディア」由来の陰謀論的論拠を「どこの馬の骨とも知れない誰かが記事や動画や配信やSNS投稿で勝手に言っているだけ」「そしてそれらを信じているだけのお前の妄想」というどうしようもない地点まで引き摺り降ろすことが必要になります。それがどのような手段によって実現できるかを考えたいところです。

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