【雑記】楽曲解説をしたいわけではなかったかもしれない
- Satoshi Enomoto
- 5月15日
- 読了時間: 4分
周囲で生成AIに楽曲解説を書かせている例を最近は時々目にします。なるほど、ほんの数秒でネット上から情報を集めてきて文章に仕立て上げてくれるのですから、一見すると楽曲解説の文章を考えるというタスクが即時に終わるというのは魅力的に映るかもしれません。
ものは試しと文章を出力させてはみたものの、大方合っているかと思いきや「和訳そうじゃなくない…?」「別の曲の情報引っ張ってきてない…?」「実際の音楽とは異なること書いてない…?」「逆に作品の重要なポイントに言及できてなくない…?」といったことが結構な数見られ、出来上がった文章の真偽正誤判定という別のタスクが生まれたことには苦笑が漏れました。
今後も僕は楽曲解説をAIには頼まないとは思いますが、仮に正しい内容を出力してくれたとしてもやはり頼むことはないでしょう。そもそも、僕は楽曲解説を作ることを望んでいたのだろうか?という疑問が湧いたことから今回の記事は始まります。
ところが同時に、これまでもコンサートに付随する様々な楽曲解説を聞いては、何かの物足りなさを感じる機会が多々ありました。こんな立場ですが一応はクラシックを弾いて音大も出ている手前、ある程度の音楽作品にまつわる背景情報は知っているつもりです。既知の情報だけが「楽曲解説」の名の下に出て来られてもフレッシュな気持ちで観賞に臨めるわけではなく、かと言って巷に飛び交う真偽の怪しい逸話を出されて勝手に面白がられても結局怪しさが気になって個人的には白ける状況が待っています。
それこそ僕も過去にはそのような楽曲にまつわるデータを並べることを「楽曲解説」として認識し、その通りに作って書いたり喋ったりしてきたわけですが、どうにもそれ自体だけでは観賞のヒントとしては不足があるのではないかと次第に考えるようになりました。聴衆は演奏を聴きに来てくれているのであって、楽曲の背景知識を聴きに来ているわけではないはずです。あくまでも演奏を観賞するためのヒントになることが提示されるべきではないかと考えました。
その考えの結果、現在の僕は「楽曲解説」とは言いつつも、楽曲自体の背景情報のみならず多分に演奏者としての主観を織り交ぜながら喋ったり文章を書いたりしています。楽曲自体の解説として捉えられる範囲は越えているでしょう。振り返ってみれば、僕がしたかったのはそもそも楽曲解説ではなかったかもしれません。
僕がどのような考えの下に曲目を選んで、どのような考えの下に演奏の方向性や方法を決めているかということをAIは知りようがありません。並べられた客観的な情報が、僕がどのような演奏をするかということのヒントになる保証は無いわけです。僕が脳内で楽曲や曲目構成において考えたことをAIはその生成する文章に反映させることはできないでしょうし、脳内で考えたことをAIに教える暇を使って自分で書いた方が結局は納得のいく文章が作れるでしょう。
あくまでこれは僕個人の考えや例であり、他の人がどのように考えているかについて批判するものではなく、客観的情報のみを載せて楽曲解説とすることや、AIにその生成を任せること自体を悪いと言うつもりはありません。ただ、僕は単なる楽曲のみにまつわる解説を越えて、演奏者自身が「何故その曲を選んだのか」「何故このようなプログラムにしたのか」「その音楽をどのように考えているか」などについて話したり書いたりすることはもっと多くあってもよいのではないかと思っています。
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