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【雑記・愚痴】楽譜の誤植から体験した相対化の蔓延

執筆者の写真: Satoshi EnomotoSatoshi Enomoto


 いきなりですが、譜例を用意しました。これはImslpからダウンロードしたチャイコフスキーの『四季』Op.37aの中の6月《舟歌》の一部です。シャーマー社の古いものですね。


 紫でマーキングした箇所は誤植です。♯が付いてEisになっていますが、正確にはこの音はEであり、♯は誤って付けられているものです。同一の減七和音が転回していくだけですから、途中にたった一音だけそのような形でEisが混じるとは考えられないでしょう。僕の手元にはペータースの原典版と春秋社版がありますが、いずれもきちんとEとなっています。


 どうしてこの誤植のことを振ったかと言えば、この記事でぶちまけたい愚痴の発端がまさにこの誤植の含まれた楽譜であったからです。


 

 これは昨年中にThreads内であった話です。この誤植のある楽譜と共に「このEisが正しくはEではないかと思うのだが、わからない」というポストがフォロー外から流れてきたのでした。アマチュアのピアノ学習者である方のようでした。


 流石にこの楽譜はただの誤植です。このパッセージ内は全て同じ和音なので誤植の♯は消すようにとフォロー外ながらコメントさせていただきました。僕がコメントした時点で既に他の人たちの多くも「誤植だろう」と考えていたようでしたが、驚くことにこれを誤植と判断しないコメントもちらほら見かけることとなりました。


 それらのコメントは「人それぞれ正しいと思う解釈があるのだからどちらでもよい」ということを言うのです。調性や和声からの判別が難しい作品であったならば「そう考えるのも仕方無い」と僕も思ったでしょう。議論の余地がある場合はもちろんあります。例えばシェーンベルクの十二音技法のピアノ作品の中にも改訂によって特定箇所の音が変わり、複数の場合の楽譜がある…などということがあるのです。


 しかしこの時は提示された楽譜がチャイコフスキーの『四季』であるということも判明していましたし、たとえそれが判明していなくとも、和音を認識していれば、そして実際に鳴らしてみれば、この箇所だけこのような形で唐突にEisが他のEとぶつかる形で出てくるわけはないということは判断できるでしょう。


 「どちらでもよい」と答えた人たちはチャイコフスキーのことすらも考慮しないばかりか、和音を読み取ることもせず、実際に弾いてみることもせず、それでいて楽譜の誤植の正誤を指摘する責任を負うことは避けたいと思いながら、他人に向かってコメントをしたいという自身の欲望に従って「どちらでもよい」などということを宣うわけです。わからないならば別にコメントをしなくたって構わないというのに、です。


 

 音楽解釈を「人それぞれ」とする言葉は耳障りのよいもので、確かに各人が様々な根拠を元にして考えるものではあるのですけれども、それは明らかな誤りを許容する方便ではないはずです。もはや今回の件は音楽解釈以前に出版社が出した楽譜の誤植をどのように読んだかということでした。「誤植を利用してチャイコフスキーの音楽を解体してみよう!」みたいな目的においては誤植をそのまま受け取るような使い方もできるのでしょうけれども、最初に「これは誤植ではないか」とポストした方はそのような目的は持っていないでしょう。


 これが音楽解釈の範疇に留まっていれば話はここで終わるのですけれども、この「人それぞれ」という言葉を相対化の方便として使うあまりに、本来じっくり向き合って考えねばならない点をすっかり覆い隠してしまっていると考えられる事例は音楽の他にも溢れていると感じています。


 例えば。誰が言い出したか、「それぞれに正義がある」だの「正義の反対はもう一つの正義だ」だのという漫画か何かで見られたかもしれない文言がバカの一つ覚えのように繰り返された末に、「正義」とは何のことであったかを考える営みはすっかり廃れたように思います。「それぞれに正義がある」などという方便の下では、どうしようもない支配欲でさえ相対化された一つの正義に数えられてしまうでしょう。武力によって領土を侵略したり、無抵抗の赤子を殺戮したりといった行いに対して「それは罷り間違っても正義などではない」とどうして言えないのでしょうか。


 それは「音楽解釈は人それぞれ自由だ」という言葉を盾にして音楽作品自体や理論や音楽史などを考慮せず蔑ろにすることを自身で正当化しているようなものに喩えられるでしょう。批難されることも防ごうとしているあたりは余計に性根が悪いと思います。


 導き出された各々の回答にどうしても差は存在するでしょう。そのような結果であるとしても、考えなければならない観点は様々に存在するはずです。それらを考えずに安易な相対化を決行してしまうせいで、明らかに外れ値のような答えが自分の中で導かれても平然としていられるのでしょう。それでいて必要な観点を考慮していないので、こういった人々が特定の事物に対してだけ突然相対化を止めて根拠薄弱な我儘でしかない主張を始めるのですから、手に負えたものではないなと思ってしまいます。手に負ってやる義理も無いのですけれども。

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